謹啓 中秋の候 ますますご清祥にて為法ご精進の御こととお慶び申し上げます。
素晴らしい時代でして、災害と疫癘の時節乍ら、コロナ・ワクチンといわずオリンピックと言わず、人智自力を尽くしていただき、科学的な生老病死への対抗の力を備えさせて貰いました。
各位のご尽力に深謝するばかりです。
けれども同時に、自身自力や人智を超えた世界に呼び覚まされ、愈々、自身の中心たる存在の淵源にも遡求して来られたことと、かしづきて敬礼いたしております。
コロナ禍のなかで可能の在り方を模索し、結果、私を超えたダルマの世界が遍満するままに、報恩講引上並永代読経会が円成され、好い法会になりました。殊に、共々にお慶び申し上げます。
既に当日法話のプリントにかかる趣旨はアップいたしましたが、ただ、あまり長く攻究と展開を離れてましたので、展開の到達情況を忘れちゃいました。
このため、先ずはコラム「還りの在り処」からアップしました講録をお浚えいたし、その上で更なる講讃に備えたいと存じますが、まとめ直しもかなり手がかかりますのでやめて、梅雨前に書き留めてあったものに手を加え、本講をアップさせていただくことにしました。
折しも、幣派では宗会改選もありましたが、先ごろ、現職の宗務総長が病没されました。衷心より哀悼の意を表します。現職ですと宗派葬が妥当とも感じますが・・・。
改めまして、人類的連帯の底流としての大慈大悲・宗教不問ということを踏まえながらも、引き続き、さまざまな運動体・宗教教団・仏教各派に於かれても、至るところで人民の為に、鋭意、教相判釈、延いては教相再構成推進をお願いしたいです。
殊に幣派に於きましては、既に教相と教判の問題点が分かっていながら、「知らぬ顔の半兵衛」は通りません。
時・機、いずれにも相応の改革を強く要請します。
今後新総長が推挙され新内局が組織されることと思いますが、総長代理がそのまま女性総長になられ、宗門全体で支えていく体制が望ましいと考えています。
真宗は女。先に住職個人のHP「淳一のスペース」で娘覚信尼公に宛てた恵信尼公消息を紹介してみましたが、初代の本願寺留守(職)も覚信尼公(親鸞さんの末娘)という女性です。その後法主、法嗣は男ですが、そこに覚信尼公が廟所を寄進することから本願寺教団がはじまっていく。
※註;「時機」は正像末和讃にも次のように語用されています。
五濁の時機いたりては 正法の時機とおもへども 時機相応の法なれば
浩宮さんと雅子さんの即位の際の令和という「元号」で少し見てみましたが、時というのは、科学的客観的時間、宇宙歴であると同時に、時評という人間社会的時間でもあり、更に、支配層の時間だったり、共同体の時間だったり、キリスト歴やイスラム歴や仏歴などの人類的な時間でもあります。
しかし何よりも、機として賜りたる私の時間、であるわけでしょう。
私だけの、あなた一人の所有ではありませんけれども、私抜きの時間は私にとって意味をなさないかも、知れませんね。
ご成婚何周年とか、勤務してから何年とか、高校51年生とか、大学48回生とか、そこから人生が始まった生涯時間だったり、しませんか?コロナで鬱屈して居られるたすけになるかどうか、以前「淳一のスペース」で「now、the era is you」と励ましを試みましたが、時間とは、あなたの人生、あなたの時代と時間でも、あるんです。
親鸞さんの場合は、御自身の年齢でもあるわけです。
そして〇〇歳のとき、仏法にかかるこうした出来事があり、こうした考察が為された、という記録になっている。時間とか時代というものが、どこどこまでも自分に引き据えた、身の事実になっていらっしゃるわけです。強い使命感、抱負、死が意識されていることがあるかも、知れません。俺が俺がの自己主張、自己関心ではないと思いますけど・・・。
時間は、如来菩薩の仏意願心を賜った者からするなら、疑いもなく、如来菩薩へと機織(はたお)られていく私の時間なんです。
機法の時間、機法一体の時間ではないでしょうか。
Ⅰ 明らかになった事実
①たすからん℃。
我々のたすかりの方は、十全では無いとしても結構前から明らかになっていましたから、必要な展開は半ば終えていたわけです。
それで以心伝心では先生方としても、何度も、もう終わった、ということになっていたわけですが、細部や我々の有様の方は、まだずっと詰められていくわけです。
しかし、佳境に入ってから探求は困難を窮め続けましたが、大分進みまして、とうとう、これで分かった、というところまで往かれたと同時に、たすからないことも、愈々、鮮明になってしまいました。
因縁起生滅・曠劫来流転輪廻の凡夫、命運界脱せず、達して愈々究むべし、苦集滅に道あり、道続く、と。
いのちというものの「たすからん℃~」が絶対やった℃~、っていうことが、分かったわけです。好い質になった、と受け止めている次第です。
いのち尊ばれるべし、ですから、生存中の暮らしが大事ですが、同時に娑婆世間でのたすかりは、小事も小願も容易ではない。
生存自体も保護が困難である。
政治や経済や三悪道その他いくつかのテーマは克服が願われ、緩和されていく可能性があるが、根源的に無理なものが孕まれているのがいのち、生存なんです。
で、たすからん、と。そのたすからん者が、たすかっていくんです。・・・まあ、たすかりと申しましても、唯の凡夫、唯凡の在家仏教ですから俗仏ですけど、仏になっていく。
ただ、視点の転換は容易ではないから、比較的たすかって往き易い分野でも、万民が時間なども自由に可能の範囲で勤労参加できるし、もっと豊かになれるし、保障を受けられるし、友となれるし、好い体制を手に入れることもできるが、どうも、どれもが難しい部類になってしまっている。
まあ、全部うまくいっても、願心を中心にしていかない限り、やはり、たすからんのです。
たすからんままの日ごろの姿は、『歎異抄』第9章に集中的に表現されていて、たすからん姿が鮮明に描かれている。この描写のおかげで、我々は自らの病巣を知ることが出来るわけです。
これが遺されていたことで、本願に出遇いながら、喜ぼうともしない、日常のままの我々が、描き出されており、願心が何ら機能して来ない状態や、往きたくならない世界としての浄土観が、ハッキリした、わけです。
もしこうした描写が遺されていないと、どうしても、法の深信で容易に歓喜勇躍する姿ばかりが遺されて、我々の実態が示されなくなっていたかも知れません。
これはコラム「願心にもたらされる人生」で集中的に取り上げ、考えてみたし、コラム「見解と識別にかかる一復演」の中の「私的レビュー」でもずっと意識していたわけですが、否定的に捉えて参ったわけです。
しかし、この遺教が私たちを示すものとして説かれたことの意義は、観経の凡夫成道と同じく、非常に大きくて深いんです。
似て非なるほど異なり、視点の転換、というより、全く新たに披かれた。
世界の根源を流れる大慈大悲の願心に拠られていく。大衆的な願いを覆して、脱せしめ、反って願いを成就していく。
②完全無欠にして一点の曇りも無きたすかり
けれども、その我々がたすかっていく。
正しく願心を賜った一点で、たすかるんです。
真っ直ぐに希望と信頼に満ちた世界に向かって往き、還っては、聞法や念仏を中心としつつ、世間の諸事に対しても務めを為していく。まあ、何ほどもなし得なくても、全く構わんわけです。
雲霧之下明無暗ということで、煩悩具足の凡夫ですから、紺碧の海とか、私の赴くゲレンデみたいに雲一つない澄み切った真っ青な空、ってわけにはいかん、澄み切って晴れ渡ったなんど申す向きは、如何やらん・・・と。
大丈夫です。ご安心ください。
③たすからん暮らしに還る
私を超えた本尊とその世界に下がったアタマが、上がって振り返った瞬間、殊勝の気持ちも何処へやら、ハイ、たすからん底下の凡愚、極重の悪人に戻ります。
けれども、ただ、戻るんじゃない。還る、ということなんです。
個人の回心は簡単明瞭で、非常に易行。
しかし、意識改革とか改心となると、いきなり娑婆のテーマになっちゃいまして、もう、難しいばかりなんでしょう。
これが共同体、社会に真向かうとなりますと、さらに、知らんでは済まない、それなりの学びと考察も要るわけでしょう。
しかも、これで好い、は無い。元々、生き物には無いけれども、生物的変化にも無いし、体制にも無いから、ずっと憶念してこれは常に自らを問い問い返し、責めなくて好いけれども許さずに居て、常にずーっと浚え(さらえ)、浚え返し続けていく必要があります。
人類的個人としての、また共同体としての機の深信をたもたなくてはいけない。自らを滅ぼし尽くして、棄て去って、捨てることで創造しなくては。
一文不知も在家の尼入道も差別と言われたりしたけれども、一文不知で構わない、回心には、全く妨げになりません。どなたにも備わる身の事実、自然の理に適うだけ、気づいていくだけなんです。子どもさんも即得の仏菩薩の世界ということです。
けれども、やはり、常に身を問い問い返し、責めなくて好いけれども許さずに居て、常にずーっと浚え、浚え返し続けていく必要はあります。
まあ、いろいろなものが含まれるんでしょうけど、聞法というのは、そういうことだと思います。
いくつかのテーマに沿うスローガンについて
先に、如来菩薩の仏意・願心に出遇って、生き直さんと志願する人生に披かれて来るスローガンを、いくつか提起してみました。
ただ、長くAIに学び、国連に学び、人々の為になる、最大公約数的なスローガンの制定・・・同じ人類共通面でも、プライヴィット過ぎる人類的個人の面が大きなウエイトを占める私には、ちょっと縁遠いテーマになります。
あれこれ過去の学びや史実を見直す中で、言ってみれば漂流する中で、何とか辿り着いて来たと思いますし、一貫して最初からそうだったと言えるほどのものではありません。
過去、感じて来たこと、思惟を巡らせてきたことの中で、現在に於いて曖昧さが取れてスッキリした内容もあるかも知れませんが、実生活も社会的現実も、見究め自体が困難なまま、なのでしょう。
しかし改めて、例えばAIのテーマ、STOP〇〇等々については、今なお繰り返されている非人間的な有様なのであって、無くなっているわけではない。
続いている現実、なんです。であるからこそ、死を覚悟するのが人生ながら、死も苦悩も、厭うのが生命。生命の願いに応え、一人の犠牲も出さずに、全ての子が天寿を全うできる世界を創造されたい、ということです。
個の狭い範囲の苦悩さえ、受け容れ難く、身を倒す。ならば相互にそれ以上の苦悩を受けるべきではありません。
無作為に抽出された如何なる一人も尊重する人権、各種の権利というものは、殊に博愛、大慈大悲の、人間を喜ぶ友なる世界をベースとし、独占・独裁・独善を排するもの、寛大と寛容と換言してもよいでしょう。
自らの思想と運動が大事なら、他者のものも尊重しなくてはならない。これはまた、矛盾こそが事態を深化発展させることがあることによっても、基礎せられましょう。
たとえ間違っていても、思想や政策や行いは反面教師として取り組まれる。ただ・・・実際の好もしからざる行動については、間違うと取り締まりの対象となるでしょうけれども。
ただ、権利保障と自由には、独裁・独占・独善の排除と、寛大と寛容だけは、必要なんです。許容しない、赦さないとしても、処遇と対人関係は常に寛容であれ、と思いますし、許容範囲のことは能う限り赦されて構わない、とも思います。
裁きと寛容及び赦し、というダブルスタンダードも、博愛、大慈大悲の、人間を喜ぶ友なる世界という出発点に於いて一つであり、どこから裁きと寛容及び赦しが湧いてくるのか、出発した根拠を見直される必要がありましょう。
まあ、人間社会、敵を招くのか、友を招くのか。
争いの中でも、相互に尊重し合い発展し合うのか、害い合って、壊死するものを内に多く抱えていくのか。
一が他を食い破るばかりでなく、各部分が統合して別の質の一になるばかりでなく、分岐分裂と矛盾には、多くの展開値と可能性があるわけです。
相互に尊び合えて認め合えていく、無三悪趣の在り方が、願われるばかりです。
成敗、法度。成敗いたす、御法度、など、法というものは制限と強制力を意味する。
戦争だから、仕方が無い、そうした社会通念になっている無差別大量虐殺ということがあるわけですが、改めて、民主社会における好き社会の為の法制と、その理念の啓発が願われています。
好き社会の為の、好き法に拠る法治のもと、人類社会が創造されていくべきと思いますが、先ずは、現行法の見直しや実効化から。
また、過去の法だけでなく現在の法と理念から、過去の事件を見直すことも必要でしょう。
今年も8月には広島・長崎の季節を迎えましたが、無差別戦略爆撃や先住民・少数民族への生活文化強要、アウシュビッツ他民族浄化と無差別ジェノサイド、民間人大量虐殺など、世界的に、至るところで、謝罪が為される時代を迎えることが出来ました。
問題視と謝罪は、至るところで友好と平和と安定を創造し、人民の為になっているんです。
しかし今なお、反省されておらず、謝罪もなされていない無数の大量虐殺が、世界中で残っています。
先ずは機会をみて、我が国による重慶などや、同盟国のはずのアメリカ合衆国による東京・ヒロシマ・ナガサキ、朝鮮戦争とベトナム北爆、アラブの度重なる無差別爆撃などの謝罪を含め、この際、まだ為されていない事柄を見直していくべきと思います。
無差別殺戮を許さない。それが人間の尊重であり、反戦なんです。
以下20211012追記
先に挙げたスローガンについて、以心伝心でTさんから「理想論だ」という声がありましたけど、これらのスローガンのどこが、理想論なのか?
体が痛むという、現実の肌感覚の問題ばかりのはずです。
それも、全部ではない、まだまだたくさんあるわけでしょう、私が気づいて精査した事柄なんぞ、極々僅か、氷山の一角に過ぎないと思います。
国会の論議で分からなくなってるんじゃないか、と感じるわけです。
私も国民としての責任、世界人民としての責任、如来の責任があるから、色々発信して、間違った点もあったかも知れない、給料もらってないけど議員さん官僚さんに連座して批判を受けなくちゃいけないかも知れないけど、多くの方々はコロナで溜まってますから、国会議員さん全員を憎んでるんですよ、本当は。
「これまで」を見る限り、どの政党にも、「これから」への期待感も限りなく薄いんです。コロナに限っては、誰がやっても、何かいい方法があったのかどうか大いに疑問だし、国会だけの責任じゃないけど。
気色ばんで声を荒げるのは辞めたわけですけど、まあ、日本だけの問題じゃないわけで、失礼の段はお詫びしますけども、問題をクリヤすべく、好い政策を提示いただきたいと思います。
さて、高齢者、障がい者、女性、若者、これはヒステリックに強く主張されることがあって、その為、誤解を招くことがあるわけです。
先に女性の置かれた境涯について気づいたわけですけど、強く主張しないと男には分かってもらえないことが多いんです。事実、私も気づき始めたのは最近。同じ女にも分かってもらえない。
障がい者も、健康な人だけじゃない、多少障害があっても健康志向の強い人には分かってもらえない。
病人も、誰かに伝えておかないと、発作が起こると生死の境をさまようことがあるケースがあるが、普通に暮らせる程度の病弱者にも、分からない。
高齢者の不自由も、若いもんには分らんのです。分ろうとも思わない。忙しいし。
若者、子どもと外人も同じなんですけど、ま、労働者も組合もそうした面が強いけども、立場が弱いから、言えない。片や、親と学校、職場と言う絶対権力があって、これはもう、それを好いことに、やりたい放題のケースが、しばしば見受けられるわけです。
子ども、児童も生徒も立場が弱いから、声を上げられないことが、まま、ある。
外人に至っては、地位のある人はともかく、一般に少数派ですから、特に争乱に近い状態の地域ですと、下手をすると殺される、みたいな・・・。もう、悶々とするほかないかもしれないわけです。
こうしたことは、自由社会、民主社会とは程遠い状態にあることを示唆しておりますので、出入国、生活基盤たる経営や就労その他、人権に配慮されていくことが強く願われているものと受け止めるわけです。
それで、具体的な運動と言うことになると、政策、制度の提示と創造になってくる。
特に若い頃はラジカルで、我が身も顧みず激しい表現ばかりになっていく。選挙戦もその分野に特化してアタマがおかしくなり、熱中するわけですから似たようなもんでしょうけど。
女性外人若者と言う主体ですと、多かれ少なかれ若者はラジカルで万事拘泥を好みますし、いずれも立場上かなり強硬にアッピールしないと聞いてもらえない如き立場ですので、なるべく穏やかに、と言いたいわけですけど、無理。
まあ、それも若者とか、その分野での女性も外人も新人フレッシュ世代は、かなり活発にラジカルにもっていく行動力が伴うから、チェンジも実行していくんでしょうけど、これは年寄り組に対しては、覚めた気持ちと冷ややかな視線しかもたらさない。
それと、ただでさえ課題は重くて大きく棚上げにされるわけですけど、現に問題で苦しんでるわけですから口を酸っぱくして言い続けるということで、エリートさん方にとりましては、あの人たちはうるさい、面倒を起こす、何とか体よく引き取ってもらうにはどうすればいい、となる。解放同盟の糾弾と同じです。
また、私らがそうでしたけど、はじめの内は、なお、謙虚さも内省もあるわけですが、長く続けますと、身に付いてボケて来ることもありますし、周りの「ベテラン」をみても、彼我ともに、自省する風も無く、逆に自信過剰でツッパリと居直りを崩さないことに気づくわけで、自ずと自分もそうなっていくんですね、政治とか社会の世界っていうのは。
まあ、何らかのモメントが無いことには、容易に脱却することが無い。確かに自信を持ってしっかり執着して続けるべき質もあるわけですけど、如何なものか、とも、感じられることになる。
なかなか難しいものもあると思いますけど、推進しなくてはならない人間の生活の防衛や、差別や抑圧など多くの困窮からの解放なので、頑張るっきゃない。
出来る限り温厚に穏健に、末永く推進されることを願ってます。
中間コメント
要するに親鸞さんという方も、念仏=本願=信心。菩提心がある。我まさに仏教に相応せん、ということが普通の求道者の姿勢と思います。
しかしもちろん、身は底下の凡夫、愚人にして悪人、とてもとても・・・ということもあるんです。
結果や可否から申しますならば、仏にても不可。
ただ、志願います。念仏本願のみぞ、まことにて、おはします、ということでしょう。
還りの在り処をめぐるいくつもの断片を、このまま本コラムに追記しておきます。散乱放逸で恐縮ですが、
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
D--
(36)
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(37)
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
(38)
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
ということで・・・。
御和讃のこのくだりは、「now、the era is you」っていう娑婆丸出しの近代的自我に依拠し抜く私の励ましと違い、親鸞さんなりの、万民への励ましなんです。苦海に沈む私たちには、如来の本願から、教相回向という摂取不捨が為されている、と。
・・・ちなみに、2019年に「スペース」の古いコラムを削除してるうち、その年の2月7日から10月23日までのコラムを間違って全部削除してしまい、社会論については概ね展開されているから差し支えないとして、一番大事にしているディアレクティクとかメタフィジックとか止滅と死滅など、思考とか認識とか意識自体を攻究したコラムが残っているか、大慌てで探し直した、という私的大事件がありました。
その際、せっかく浩宮さんと雅子さんご即位にコメントしたコラムも消失してしまいましたが、要するにかつての支配層であり、人民主権且ついのちは平等であるから差別性は留意されるが、現在は戦犯でも無く、むしろとてもよくやって居られるので、戦後の国民の多数と皇室の願いに沿い存続されて構わないし、それなりのサポートも続けられるべき、という現状容認です。
まあこの事件で自分の関心事が改めて分ったわけで、世間話も出来んバカ、のままなのかも知れませんね。
🌞🌞🌞🌞🌞
Ⅱ いくつかの断片
如来菩薩道への、我々の可能性
ちょっとまえ、お浚い的な断片の中で仏を挙げましたが、ブッダは法身。
法身というのは法身法体、ダルマが身体に現れた人、なんです。必ずしも言葉で現わされる事ばかりではありませんが、法体が、身に備わる人。
法自体は自然、におい・姿・かたち無きものですが、身が頷くから、法を賜られた身を示しても居られます。法が生身になる。
それが全部詰まったのが、南無と阿弥陀仏という、蓮如さんによりますなら機と法が一体となった名号です。
機法が備わらんと仏でない。如来菩薩の道でないんです。真如実相があったとしましても、身に実現して初めて、私に法が顕現していく。
ですので、御仏像よりも御絵像、御絵像よりも御名号、といわれましたし、名号よりも称名、称名よりも自内仏かも知れませんが、ダルマそのものである。
ダルマは人間に体現されないと、私とは関係の薄いものとなります。
ダルマが人間に体現された時、人を輝かせていきますし、サンガということが備えられるんです。
ですから御仏像も御絵像も、法を体現して説法する教主と、サンガを表現しております。
一切経全部が人間の為にあるけれども、もとより、述べました通り、大慈大悲、四無量心、六通の意味もまた、深い対他性なんです。博愛と関係性の完成を意味しています。
まあ、狭い朋(法)友ばかりのサンガ内ばかりでない、異なれる人たちをも包摂する如き、寛容で温厚な関係を求めるはず、でありましょう。
先日もお引上げのプリントにしましたが、これまでもふれました通り、さとりの授記にみられる教相の問題につきましては、報恩講の御和讃、「弥陀大悲の誓願を」の中に、
(54)
弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなふべし
(55)
聖道門のひとはみな
自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば
義なきを義とすと信知せり
(56)
釈迦の教法ましませど
修すべき有情のなきゆゑに
さとりうるもの末法に
一人もあらじとときたまふ
とございますように、釈迦さとりの授記の質とは異なる、いのちに本来備われる(大慈大悲が)流れて居り、これが主要なものである、ということです。
大慈大悲もまた理由の要らない、意味の迷路を彷徨わなくて好い(義なきを義とする)自然である。期せずして、奇しくも(くしくも)自身を脱せしめてくる。
これはその前の、「弥陀大悲の誓願を、深く信ぜん人は皆、ねても覚めても隔てなく、南無阿弥陀仏を称えるべし」を承けていますので、大慈大悲の誓願を賜る、ということになります。
四無量心や六通も対他性・共同性であって社会性であるということです。
大慈悲というダルマの菩提に備わる願心は、我々の関係性の重視たる共同性と友好です。
大慈大悲とか四無量心とか六神通は、利他、他者を重視するところに生ずる関係性中心の共同性、友好と友愛ですので、実生活としましては多くの視点から共同体とか共同性の在り方を求めて行きたい。
しかし、可否を言うなら、既述の通り、仏にても不可。
一例を挙げますなら、衛生観念は大事だし、健常者信仰は自然、自分たちの利害も利権も勢力維持も自然で大事だが、それは直ちに社会的差別には該当しない。ただし、差別化の一つである。
多様と進化自体が矛盾を産み、差別となる可能性さえ、あるんでしょう。
他者差別が何より根深いわけでしょうが、自分の世界が、おのずとあらゆる事象を取捨選択・差別化していくものでもありましょう。これが害い合う壁になっていく懸念が大きい。
身の事実、私の現実は、と申しますと、自身は既にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫来没して流転して出離の縁あること無き身、という機の深信が、ふつと(絶対に)たすかるということあるべからざる身たることが、先ず確認されているべきです。
ですが同時に、身の事実、私の現実の大きな一つたる大慈大悲の願心を開発・開被せしめ、頓悟させてくるはたらきが、ダルマと如来菩薩の御はたらきなんです。
それ故また願心と願心を賜った私らは、還る、世間道にも展開していく。
但し、親鸞さんの時代は夢告の頃。ダルマ、ブッダの神秘的なはたらきもゼロでは無いかも知れません。が、それを考慮に入れても、極めて事即理(ことわり)に適ったこと、と申せましょう。
なお、お浚えのところで述べるべきことですけど、真宗の本尊、阿弥陀仏は凡夫の私の処に、釈迦牟尼仏のお力添えで仏の方から来られた、観経の住立空中の本尊とも言われます。
自らを滅ぼし尽くして、とらわれなく自らと世界から解き放たれ、喜び合えて、尊び合えて認め合え、与え合うブッダの安楽世界から、この日々に還られて、驚いて起ち上がり、こちらに踏み出されたお姿にシンボライズされています。
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)といい、色・臭い・姿かたち無き法体が、人間に実現して法身=ブッダとなるわけですが、このことは同時に、成道された方は皆、還相回向されてその方便(浄土往生及び成仏の方法)になることを示されているように感じられます。
強弁に聞こえますか?まあ、方便として現れているに過ぎない的な理解が蔓延していることでしょうけど、私の受け止めでは、成道者が往生成道を勧めて実現させるのですから、こういう論理になるはずでは、ありませんか?
我が身は既にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこの方、流転輪廻し没して出離の縁あること無き身という機の深信からも、自制自戒からも、我々の仏国土往生や成仏を出来なくされた感を禁じ得ない親鸞様でした。
ですがその親鸞様でさえ、晩年にはとうとう、ポロンと、念仏者=信心の行者は如来等同、菩薩等同などと仰らざるを得なくなる。
凡夫が本願の正機であり、不思議だが、仏になるみ教えですから、当然のこと、と申せましょう。こうして凡夫もみな、くすんで輝かぬばかりであった身が、本願を賜って、輝く法身となるんです。凡夫が仏になるこそ不思議(蓮如さん)。
なお、
無礙光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり
って感じで、いたるところに法が遍満しているわけですけど、それとは別に、光明が様々なはたらきをする受け止めがおありだったわけで、密教的な素養のあらわれかも知れませんね。神童の誉れ高い師、法然聖人に負けず碩学でいらっしゃったから、いろんなところに学ばれた法相が化現してくるのかも。
この正像末の御和讃は、正法・像法・末法の三時観のなかで、いま、末法滅法時代になっている、この身と時代を悲嘆するもので、同時に、何らの期待を寄せ付けない時代と身にとってこそ、正法の時代として仏道が開かれる、かかる仏徳讃嘆からなっています。
少し抜粋してみますと、分かり易いかも知れません。
(4)
正像末の三時には
弥陀の本願ひろまれり
(6)
数万歳の有情も
果報やうやくおとろへて
二万歳にいたりては
五濁悪世の名をえたり
(9)
有情の邪見熾盛にて
叢林棘刺のごとくなり
(11)
末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし
D--
(12)
九十五種世をけがす
唯仏一道きよくます
菩提に出到してのみぞ
火宅の利益は自然なる
(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
(44)
十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなはぬほどはしりぬべし
このように時代と自己を認識され、このような自己と時代の中で同時に、
(15)
正法の時機とおもへども
底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし
発菩提心いかがせん
(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
と、ご自身を含めて、発菩提心、なんていう大それたテーマが吐露されておりまして、ここに、親鸞さん御自身が、既にして、抜き難く、聖道門の人たることが、垣間見えるわけです。
これはよく言われます、親鸞という名のりが、曇鸞菩薩に親しいという、また、世親菩薩と曇鸞菩薩の足跡を賜ったという、菩薩の名のりであるということがございますが、非常に菩薩道の実践が意識されている。
更には次に、大般涅槃(ニルバーナ)という、これまた大それたお言葉で、成道宗、成道門であることが言われています。末代末世、末法滅法時代の正法だ、ということです。
(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり
P--604
(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
D--
(24)
如来二種の回向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆゑ
憶念の心はたえぬなり
(25)
弥陀智願の回向の
信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆゑ
等正覚にいたるなり
(26)
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
P--605
(27)
念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし
(28)
真実信心うるゆゑに
すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり
(29)
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
(38)
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
P--607
願作仏心というのは、ブッダになるを願う、ほとけの世界を喜び求める心持のことです。
なお、「義なきを義とする(理由が要らない、意味の世界を彷徨う必要もない)自然」については、次の部分などで「不思議」が多用されている。
(47)
仏智不思議を信ずれば
正定聚にこそ住しけれ
化生のひとは智慧すぐれ
無上覚をぞさとりける
D--
(48)
不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまへり
信心の正因うることは
かたきがなかになほかたし
P--609
(51)
南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり
このあと、自戒自制の悲嘆懴悔が述べられます。
愚禿悲歎述懐
(94)
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(95)
外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋・邪偽おほきゆゑ
奸詐ももはし身にみてり(ももはし=たくさん)
D--
(96)
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
(97)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(98)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
P--618
(99)
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
釈親鸞これを書く。
非常に強く有情利益が願われているわけですが、このあと更に、災害と疫癘時代の、善光寺の一光三尊仏が「なにわの浦」に招来されたことが述べられます。
また、以前、仏について、「浮屠」とか、漢訳に於ける外国思想への差別的な表現ということでいくつか挙げましたが、「ブッダ」が「ほとけ」に訛ったと思います。
親鸞様はまた違うお受け止めで、「ほとほりけ」(ほとほる=疫病等で熱がある)が「ほとけ」に転じたとされる、もう一つの由来が言われます。
まあ、いずれにしても、排斥的な表現と申せましょう。
これも一部だけ引きます。
#2善光寺讃
(110)
善光寺の如来の
われらをあはれみましまして
なにはのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて
(111)
そのときほとほりけとまうしける
疫癘あるいはこのゆゑと
守屋がたぐひはみなともに
ほとほりけとぞまうしける
D--
(112)
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋がまうすゆゑ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
(113)
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけとまうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
(114)
弓削の守屋の大連
邪見きはまりなきゆゑに
よろづのものをすすめんと
やすくほとけとまうしけり
P--621
親鸞八十八歳御筆
そして巻末に、自然法爾章を収めます。
要するに、釈迦授記(往生成道の予言)の質を含めつつ、大慈大悲の人、としての浄土の往生人がある。
有情利益する人。それが如来、菩薩である、と。
そして我々は皆、発菩提心も回心も怪しいわけですが、雑行ばかりにして、聖道自力ばかりである、いずれもいずれも、成道には適わないものである、と。
また、『観無量寿経』にふれましたが、以前、シリーズ「人類の知的遺産」18『善導』(藤田宏達先生)を拝読いたしました折り、道綽・善導両師は、たとえ偽経でも仏意・願心を見事に見抜かれ、依用されていたことが分りました。
また、観経自体も中国や西域撰述の偽経かも知れない、といいましたが、導師自ら自著に対して経教の如く扱えと言われたことも、分ったわけです。
悪く言うと恣意的だが、もともと大乗経典類自体がシャカ直説の初期経典類とは違うことを鑑みれば、何らの問題をみないものと受け止めて居ります。
すると逆に、いわゆる経証(経に言うとおりなら証明になる)自体も、特に必要では無いように、思う次第です。既に述べました通り。
なお、大乗経典に繋がる質を初期経典は含むわけですが、仏道に小乗というものは存在せず、上座部も部派教団も、初期経典も、全て大乗である。予て述べた通りです。
ただ、私らにしてみますと、分けても導師と観経が、人類全員「唯凡観」で以って、凡夫の即生、成道を明かされた稀有の質となっている、と受け止めます。
之を親鸞様はお「正信偈」で「善導独明仏正意」と讃嘆して戴かれました。独明、なんです。導師独りが明かされた、と。
内心外道を帰敬せり
外儀は仏教だが、内心は外道に頭を下げている。
これは我々全員、内心外道なんです。聖人も時の支配的大教団を詰るように語用されるが、自身を誡めていく言葉と受け止められるべきなんです。
まあ、そうしたことでは困る、問題ではあるとしましても、上座部・部派仏教も聖道門も、門徒、在家仏教の在り方も、いずれもが世間と衆生に要請されたものでしょう。
世間的なものを脱そうとする志向も、大事ということです。一つはそういうニーズが大きい。
また、超俗の世界には入り難い人も多いから、世間の家に在りながらたすかっていく、そうした質も重要です。
相和して、満遍なく梵網ですくいとっていくんです。誰もがたすかっていく。
大経にも、上首と菩薩と共々に名を挙げられていく。
ただ、順番は上首が先ですから、シャカムニの尊重と上席の出家僧の仏弟子の尊重があります。
なかなか微妙な辺りです。
聖人は、釈迦の教法ましませど・・・内心外道・・・ということで、明らかに全否定されている。まあ今や、聖道門の先生方も鬘(かつら)もつけずに飲みに行かれるんで、外儀すら怪しいわけですけど・・・。
身の事実からいたしますなら、仏道を修めるには念仏=信心=本願為本しかない、ということで、外儀は関わって来ないんです。
維摩居士が上席の仏弟子をやりこめることも、何ら不思議ではない。
日々の在家らいふ
日々の在家ライフってのは、『真宗の生活』とか、あんな堅苦しい内容、整ったキレイごとではないわけで、私に、邪に、生きる、縦(ほしいまま)に生きようとする。
単にいのちの歴史に生まれたに過ぎない者による、私のいのちの私物化、です。まあ、そう作られてるから自然でもあり、権利でもあるんでしょうけど・・・。
無自性空で自身に見えて来る無執着と大慈大悲の正覚とか回心ご信心からすれば、生も死も生きて来るんでしょうけど、そんなえーもんとちゃ~う。エゴイズム、ミーイズム、グチと罵倒。
まあ、同時にお釈迦さんの徹底した命運の世界の脱出からしますと、それもまた囚われの世界ではありますが、狭い執着ではない、自然の私の求めもあるわけで、このこともまた露わになり、孕まれていることが明瞭に意識され、育まれていくんでしょう。
わざわざ面倒な考えや行いや関係を招くよりも、ずっと好いんだ、と。
結論はスッキリしていて、エゴイズムやミーイズムはあかん、オンリーワンもメリケンファーストもアカン、と。
しかし、俺が俺が・・・も残るだろうし、エゴイズムもミーイズムも残る。どうしたらいいかなあ、ということで、見据え続けるわけです。
見据えることは出来るし、自制されたり緩和されていくことは出来る。
ただこれも、自制といえば聞こえは好いが、要するに鎮めになったり、辛抱すべきでないことを、言うべきことを抑圧する面があり、吟味が要るんです。
教相に真向かう
仏道は無自性空の無執着を基礎としつつ、無差別無条件の慈しみを要旨とする。
共同体。ア・ミタも、大慈大悲も四無量心も六通も全て、人間を尊重し慈しむ対他性である。
悲は人間の惨状と、真宗的に言うなら、それを脱し得ないいのちの共有する悲惨への、慈しむが故の深い悲しみである。同悲し共苦し共感する。
実際の共同体では難しいかも知れないが、既に明示され、我々に次々と地湧し、内側から決起して来るものであるから、仏道の継承についてはあまり心配していないわけです。
ただ、教相と教相判釈については非常に気になるので、無条件無差別の端的ないのちの尊重、及び、願に自分が死んで、改めて願に生きる者となる旨、これも既述したわけです。
名号不思議の信心
教団ということがあり、根本的な理解、まあ、受け止めの点で、腑に落ちない点があって、その中には実はどなたも長く感じて来られたものも、あると思う。いろいろ間違っているわけであろうけれども、教相や教判の根源の受け止めがヤバいとなると、これは改革が必要になる。
現世改革という大きなチェンジが近代に於いて、第二次大戦後特に問われたことから、バチカンその他により実践されたことなど、その最たるものといえよう。
この、宗教が理想としてきた世界、人間に見い出されながら人間を超えたものとの出会いなどと、現実社会及び現実社会への態度・対応ということを、どう受け止めるべきか、かなり問われたものである。
そうしたことも含めて、たとえば真宗であれば名号を賜る、その名号のいわれ、内容を再確認することだけでも、かなりの変化がもたらされると思う。
ダルマ=ブッダの願いであり、機法一体であり、仏・往生人と、私・私たちであり、本願成就の信心の表現であり、サンガであり、仏の世界であり、仏と法の成就である。
凡愚の機の深信があるから、驕りも過信も肯定も無い。底下凡愚悪人という自己の姿が明瞭である。
同時に、既にして出遇い、既にして、成道を賜った樹心仏地である。
ここに、信に死んで願に生きよという使命を賜っていく。往相は還相としてはたらく。
願心とその開く世界が、好き世界であり、好き人生であるから、私に選ばれ、心酔されていくのである。
逸れてゆき、漏れてゆく身に過ぎないけれども、同時に、かかる自身が何ら妨げにならず、目指す世界をハッキリ賜り、知り得、目の当たりにした者には、チェンジと新世界がハッキリして来るわけです。
名号は、蓮如さんは機法一体と仰られたが、大慈大悲にして因縁起生滅の無自性空義である真如法性たるアミタというダルマに帰命する姿です。
だから、名号自体が信心を意味し、表現している。
それまで中心であって拠られて来た自分なる者が、万民済度のアミタなるダルマにふれ、アタマが下がった姿。
ということは、そこで自分が棄てられているんです。
思い議ることなく自然に本当に安堵されて安楽される世界だから、自分が棄てられて寄る辺になる根源に拠る、自分を超えた世界に命が帰するということが成立していく。法の深信。
同時に「本来願われていない関係性」に終始して来たことへの気づきから、迷妄の世界たる世間についても、棄国捐王されていき、新たに仏国土建立ということが出て来る。機の深信。
南無(漢訳意訳では帰命)と法性により構成された六字・九字・十字の名号は、漏れなく摂取不捨する本願成就、信心成就の姿、と申せましょう。
我々の自然性の一つである本願に頷いた信心と、自分が滅ぼし尽くされたことと、本願を賜った者の使命を暗示するものでしょう。
アミタの意味
ア・ミタのアは、限定や限界の否定。無限無量の、広大無辺済度の世界を意味しているんです。
無量寿、というよりも無量光。済度の光で世界と我々を照らす。
すなわち、仏道の全てがアミタの名乗りによって既にして示されてある。
そしてこれに南無(帰命。空無自性と大慈大悲とその行いに頷いた姿)という二文字が成立して我々が自己の中心、根拠として賜っていくところに、法の成就、サンガの成立があり、仏国土が開かれていく。
・・・まあ、仏国土については開かれていくけれども、なお、それとしては十分には自らを表現できないかも知れませんから、願われていく、開かれることが暗示されている、という理解でもやむを得ないのかも、知れませんね。
ご存じの通り、南無阿弥陀仏は
帰命尽十方無碍光如来
南無不可思議光如来
とも言われていますね。無差別無条件に済度するから、なんです。済度というのは、悪人が悪が妨げにならずにブッダの世界に生まれる。悪人のまま、では無いんですけど、善悪の凡夫を問わない。
ただし、示される道は、好き世界へ、ということですから、まあ、善であり正義であり、対して、それに背いていくのが私らだから、批判され否定され叱られ続けるけれども、かかる自身を痛み、否定するところに、済度がある。これが願心に頷き回心信心を賜った、二種深信の姿です。
アミタの光
この、無量光如来の光について、親鸞さんの讃嘆がある。ほとけの世界たる仏国土、ブッダ・ワールドの性質に言及されたことになります。あれほど凡夫の即生に疑問せられながら、凡愚即生疑いなし、とも・・・。
まあ、曇鸞さんの理解では光は智慧光ですが、光というよりも、色んな名で、アミタとその世界が理解されていく。
三帖和讃のはじめ、浄土和讃の最初、巻頭和讃のあとに曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈が引かれていて、そのあと、和讃が造られて行きます。
少し、観て参りたいと存じますけど、まあ、狭い料簡で、不勉強のままで、ふれますので、先学諸賢に学ばれることをおススメいたします。祖師方と先学の煩瑣な解釈の出番の部分、でもあるんです。この部分に限りませんが、御本書の講義はまあ、面倒なお話しが続いて、本願も御信心もどこへやら、という印象しか残りません。
ポイントは、もちろん、親鸞さんの視点からのブッダの世界とはどのようなものか、という処にありますけれども、機の側に重点があるか、法の側か、如来菩薩の道を賜って生きていく攻究上、関心が湧くほか、親鸞さんの視点自体に迫ることともなりましょう。
また、阿弥陀と名付け奉る、とも、仰られた。パブリックでグローバルな限りなき灼熱の慈しみの対人性が溢れ出て、仏自ら、ダルマ自ら名のられたのではないか、誰が名付けたのか?
親鸞さんでもあるけれども、祖師方全部が名付けられたのでしょうね、やはり。万民済度のブッダのダルマをアミタと名付け、いただいてこられた。
名づける、号けるというのは、このようなこれまでの宿因宿縁の歴史的経緯、いわれで、こう言われている、というご説明・解釈でもありますし、定義、とも言えなくはない。
三帖和讃のはじめ、浄土和讃の最初、巻頭和讃のあとに曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈が引かれていて、そのあと、讃阿弥陀仏偈の和讃が造られて行きます。このあと、三部経の和讃。その中に、阿弥陀経の部分で出ています。これは七高僧の中では、善導さんの往生礼讃偈にあるようです。
またいはく(礼讃 六六二)、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。{以上}(教行信証行巻)
【71】 しかれば、真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを
歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し
懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信
P--187
に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつる
と。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品
一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(教行信証行巻)
身心滅却
ともあれ、お座りいうのんも念仏も、自分を問うていく、自分を忘れるとか、無くすとか、そういう表現もありますが、法に出遇って自分が死ぬことで願心に生きる自分が生かされていく。
そういうところがあるん違うかなあ、と。
まあ、それぞれの生活の中で、意味薄なんか、自分を生かして、自我から出発してアレコレ取り組むほか無い、という生活風が、流れになっています。
そうじゃないと、危ない、と。とても判断なんか出来なかったり、といって判断を委ねることも出来ないこともあれど、さりとて、基準、根拠、中心が分からないか、ハッキリしていない。
ちなみに、いっぺん死んでも、自我や自分や人生が治る、というのとも違う。
治らんことが一層ハッキリして来るに過ぎないわけで、なかなか説明し難いんです。
凡夫に戻らんと危ない、還るなんてことは出来ん、ってのと、似通っているんですかね。
信に死して願に生きよと言われたけれども、俺が俺が、があるうちはダメで、本当の自由の一つが、そういう自分を離れて、あるんじゃないかと思う。
仏菩薩というも、人間関係そのもの、温かな対他性そのもの、グローバルでパブリック、インターナショナル。自分の世界じゃない。もちろん自分が居るけれども、もう自分じゃないし、自分だけでもない。
共通している、人類的自分。
行者の姿勢
少し、願心の受領者、信心の行者の在り方についてもそうだが、自分の中で積極的で前進しようとする理解と表現が優先されがちなところが、気にはなる。
もっと落ち着いて、じっくりと構える時間や表現もあるからだし、皆が皆、そんなに積極的なわけでは無い。
受動的もあれば、消極性も、静かな時間もまた、人生表現なのであろう。
だが、凡夫ながら時に道が見えるのである。鳥瞰的なパースペクティヴがスケルトン状に開けてくるとなると、これは、ただ引っ込み思案でも居られないし、わざわざ迂回することも困難。
願心とは、観であり、人間自然という絶対的不可能の中で、好き世界への可能性に取り組むこと。
観はさまざまを披いていく。時には自律や他律の戒や律ももたらすものであろうけれども、やはり、自律が望ましいであろうし、自ら拘泥され得るほど立派なものは、底下凡愚悪人には滅多に現れないから、油断も安心も出来ない。
むしろ、与え合うが如き素晴らしく輝き合い、輝かせ合う関係の成就を目の当たりにするなら、実の如く目の当たりに仏に会うなら、その時こそ、自らの曠劫来底下凡愚悪人たることを想い起こすべきかも知れない。
好き関係を望み続ける我々であるが、本当に素晴らしい仲間関係のとき、むしろ自身とこの世の悲惨を想起して自制し自戒すべきように、感じる。
回心
回心ということについてもやはり、自己を脱する。
向上心、状況打開、イラ立ちや不満からの出発、願いという自然が、党やイズムや国家への回心めいたものを導くけども、いずれも、現状を脱し、また、自身を脱しようとするものでもある。
そこには二種深信に同じく、理念への帰依と、それに逸れる身への叱咤激励や痛みや悲しみ、頑張りなどが見受けられよう。
ただ、それもまた自我となって拘泥されてゆく、かぶれてゆくことにもなろう。
また、二種深信の誤った理解たる、理念と自己との乖離の当然視と受容、居直り、現状肯定や努力放棄、王法と仏法・仏道と世間といった二元論などもある。
回心の様態については、自己と世間を脱して変身・チェンジしていくということがあるんです。
勧善抑止悪という観
無量寿経五悪段に、勧善のくだりがあります。
「なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。
心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。
ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。
ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏国土にして善をなすこと千歳するに勝れたり。
ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなすものは多く悪をなすものは少なし。福徳自然にして造悪の地なければなり。
ただこのあひだ(身を置く世界)のみ悪多くして、自然なることあることなし。
勤苦して欲を求め、うたたあひ欺紿し、心労し形困しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務して、いまだかつて寧息せず。
われなんぢら天・人の類を哀れみて、ねんごろに誨喩し、教へて善を修せしむ。器に随ひて開導し、経法を授与するに承用せざることなし。意の所願にありてみな道を得しむ。仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災癘起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし。〔人民〕徳を崇め仁を興し、つとめて礼譲を修す」と。」
勧善というのは、仏道と仏国土のお勧めということです。
ちなみに、蓮如さんが宿善(過去、善きことに出遇っている)とか無宿善と仰られる場合の「善」も、本願念仏の回心信心など、仏道を生きること、です。
しかし、仏教が観ずる浄仏土、仏国土は、現実であり、事実なのか。現実社会での生活実践の課題となるのか。ただのイマジネイションや観念や実現しない偏向した理想世界なのか。はたまた、作り話や死んでからの話なのか。無三悪道も死後なのか。
また、人間というものがどのように観られているか、というより、受け止められているか。
霞を食って生きる仙人でも無ければ、超俗の聖人君子でも無く、老病死と苦闘しながら実生活を進める全くの在家の生涯でありますから、いろいろお勧めもみ教えも大事なことは分るけれども、せめて精神面や考え方の観念的な点だけでも、私にとって重要な「何か」が無いことには、とてもチョイスすることは出来ません。
理想主義
イデアや観念
イマジネイション
作り話
死後・・・等々としての「世界」
⇕
生物とか消費者とか労働者、脳や心理など、科学や人文学など諸学が見出したり規定したり定義する一つ一つの客観事実
私の事実である価値
身の事実
肌感覚
慈しみと人類的苦悩たる共苦同悲共感
愛着と束縛と個的苦悩
四法印・四諦・八正道・十二因縁や本願念仏往生
因縁起生滅の輪廻転生空過流転
変化し続ける、アートマン=我=本性がない空無自性
愛別離苦、対象喪失、あはれといふもなかなか疎かなり
自然で自分の、また相互の自他双方による、老いる者・病に倒れる者・死ぬ者など四苦、八苦、求不得苦や怨憎会苦、友好や与え合い・・・等々という「事実」としての世界
いずれもブッダの世界であって重要であるが、どちらかというと仏教は、事実あるがままの世界を語るに過ぎない。
まあ、凡夫でありますから、また教相にも怪しいものもございましょうから、無理するべきではありませんが、少なくとも志願、勧め続けるということがあるわけです。
仏教は、姿勢としては自己のうちに原因を見い出したり、自己の改革に取り組む傾向が強い。比較的内証内観の傾向が強いですし、為に分り難いこともあるでしょう。
更には、身体・心や煩悩などのカーマの流転輪廻転生による空過の世界、命運の世界を脱する傾向が強いわけですから、愈々、生存の為に勝敗の為に激闘する暮らしからは、さあ、ご縁が薄い。
死後とも関連しつつ、日本でも菅原道真公や徳川家康公は死後、神々になってますけど、エジプトやインドや中国、ギリシャや北欧でも、もと神官や高僧などのうち高位の人は、時には自らが神々を司り、神々になったり、神々よりも偉くなって言い負かしたりしたんじゃないか・・・と思いますが、人生の生活の延長としての神々の世界ということも、あるわけですけど、そういうのとも違ってる。
いつの間にか習俗的に神々みたいに祀られていることはあるけど、恂に以って、むしろ生活を問い、自己を問う方向なんでしょう。
親鸞さんによる曇鸞さん
曇鸞大師讃嘆の御和讃、「世俗の君子「幸臨」し・・・」の意味は、仏道が我々在家の王法社会、俗人、世俗に伝わることを意味している。俗物、俗仏・凡仏が、ある。
こうした巨大な意味を見落としてはならない。
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある
(24)
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
(25)
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
P--583
(26)
魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおはしける
やうやくをはりにのぞみては
汾州にうつりたまひにき
(27)
魏の天子はたふとみて
神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば
鸞公巌とぞなづけたる
天親(世親)と曇鸞から、親鸞の名乗りをされた、という理解があり、そうだろうと思う。
また、鸞に親しむ、という名乗りになっていることから、ことに曇鸞を重視され私淑して居られたものと受け止めるし、曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈などを重用されている、とも思われる。
御和讃の中でも、史料には詳しくないが、曇鸞讃の分量は多く、お正信偈でも龍樹・天親と同じ12行の分量が充てられている。
他を軽視するつもりは無いが、曇鸞讃は内容面からみても極めて重要な志向が読み取れる。
ちなみに、善導さんはそうでもないのかも知れないが、曇鸞さんには龍樹への言及もあり、先生は龍樹門下と断定されている。
親鸞さんの龍樹重視は既述の通りである。
同時に、論註を著わされたことから天親さんにも特に近く、親鸞さんは曇鸞さんを菩薩と位置づけされている。
また、曇鸞さんも魏や梁の武帝など天子との関係が色濃く、親鸞さんも天子聖徳皇讃もわざわざ大量に制作されており、国宝本には無いが、高僧讃巻末には聖徳太子が載る。
これは太子が三経義疏を制作した伝説とか、日本に大乗仏教と大乗経典を持ち込んだこともある。
同時に、太子以前からだが、新羅や百済から仏像や仏教や僧侶が献じられたり派遣され、天皇が礼拝の可否を臣下に尋ねたり、守屋さん以前にも物部氏により仏像などが焼き払われていたり、占いで決めたり、何度もせめぎ合いがあった時代のシンボル、それが太子でもある。
故に、同時に、政権との関りが、宗教弾圧を受けた親鸞さんには特に重視せられたフシも、感じられましょう。
更には、感覚に過ぎないが、天との関係も重視されている感じがする。魏の天子はたふとみて、神鸞とこそ号せしか、というくだりもございますが、菩薩ということと同時に、神格化もある。
どのみち弾圧と迫害の為、親鸞さんに限らず吉水の教団では、ずっと怒りがのこされ、政治(天子)と祭祀(天)ということが、殊に、終生、意識されたと思う。
次に、史料を知らないが、現在公刊されている詠み順からすると、最初に、菩提流支のこれこそ長生不死という勧めにより、観経一部を授かり、仏法三蔵の修学研鑽の為に長生不死が必要という願いで用いてきた仙経を焼き捨てたという事績にちなんで、述べられる。
無量寿の長生不死、ということと、回心、ということが思われるが、浄土一門に帰せられた、という理解で好いであろう。
しかし、学ぶに長大な時間を要する、という点は重要で、多様と迷いを意味し、遍歴を意味する。
新教導入に限らず、既に百花繚乱、百家争鳴となった時代もまた、帰するところを知らず、踏み切り難し、ということであろう。我々の姿そのままである。
十方仏国が浄土なのに、あなたはどうして西にあるのか、何によりてか西にある。(如何なる理由で西に生まれる)という解釈ですが、東魏の天子が不審に思いそう尋ねると、
我が身は智慧浅くして、未だに菩薩の地位に入れませんから(十地の階梯の初地〈初歓喜地〉の菩薩でさえ無い。不退の位にあらず。迷いの存在のまま、ということ)、十方仏国には些末な私の念力など到底及ばない、届かないのであります。
このように応えられます。道は狭く険しく、撥ね返されてしまうのである、と。ここに親鸞さんは続けられて、
一切僧俗の帰すべきところは、実はどこにも、全く、絶対に無いのです。こうした阿弥陀仏の安楽国への勧帰のこころざしは、ようやく、鸞師ひとりが初めて定められた。有り難く尊ばしいことである。
と、浄土一門以外に帰すべきところはどこにも無いことを説法されました。
以前述べました通り、菩薩で無くともいい、菩薩で無くても凡夫が往けるんです。
但し、往った、ということで、凡夫が菩薩になり仏になるんです。
講讃復演
智慧浅く、凡夫、悪人、と。これ自体、在るがままの如来菩薩の観であり、倫理性を超えた深い倫理性による自覚である。
そして、かかる身にこそ、ダルマが既に曠劫来届けられていて、本願の念仏(願心に頷くこと)ひとつにより、易く私の本願と信心が開発されていく。
悪人であって、菩薩で無い、迷ってきた私が、如来菩薩の世界を賜って往生せしめられ、仏になるんです。
さらに、というのは下に否定を伴い、全く、絶対に、の意。
(37)
論主(世親)の一心ととけるをば
曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが
他力の信とのべたまふ
P--585
(38)
尽十方の無礙光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
(39)
無礙光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
(40)
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
本願回心をたまわった悪人、へと生まれる。悪人のままで、自身の悪しきを顧みずに振り捨てて、往くんです。
(31)
天親菩薩のみことをも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし
P--584
(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ
(33)
いつつの不思議(衆生多少・業力・龍力・禅定力・仏法力)をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘誓(本願)になづけたり
(34)
弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
D--
(35)
往相の回向ととくことは
弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば
生死すなはち涅槃なり
(36)
還相の回向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなはち諸有に回入して
普賢の徳(大慈大悲)を修するなり
還相回向は、教化地に至ること。あらゆる場で還相回向の仏菩薩として現れ、仏を手伝うはたらき、教が生活を生かすはたらきを修め続ける。自ずと地上に浄土の益が現れる。
弥陀の回向成就して往相・還相の回向によりてこそ、他力広大威徳の心行ともに得させる、ということですけれども、回向成就。
如来の回向が衆生に、私に成就するんです。だから他力の不思議。
(41)
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり
(42)
尽十方無礙光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしほに一味なり
(43)
安楽仏国に生ずるは
畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ
諸仏浄土をすすめけり
P--586
(44)
諸仏三業(身口意)荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ
(45)
安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまふ
(46)
如来清浄本願の
無生の生なりければ
本則三三の品なれど
一二もかはることぞなき(衆生九種の違いも、浄土では寸分の違いも無い)
D--
(47)
無礙光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまふ
(48)
不如実修行といへること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆゑに
(49)
二者信心一ならず
決定なきゆゑなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ(淳・一・不二・相承之信)
P--587
(50)
三信(淳心・一心・相続心)展転相成す
行者こころをとどむべし
信心あつからざるゆゑに
決定の信なかりけり
(51)
決定の信なきゆゑに
念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ
決定の信をえざるなり
(52)
決定の信をえざるゆゑ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり(天親論主の信心一心)
D--
(53)
万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり
(54)
本師曇鸞大師をば
梁の天子蕭王は
おはせしかたにつねにむき
鸞菩薩とぞ礼しける
以上曇鸞和尚
いくつか抜き書きいたしましたけれども、幣派公式見解では先ごろ曇鸞は菩薩では無い、龍樹・世親までが菩薩、ということに断定されました。
菩薩なのか、で無いのか、どちらだと思われますか?親鸞さんは、ご和讃では武帝の謂いを引かれ、また、龍樹天親おはせども、曇鸞大師なかりせば、と、暗に菩薩であると言われているわけですが・・・。
まあこれは両両度も、菩薩なのかどうか。機からみれば、凡夫。
しかし、その凡夫が仏になるこそ不思議。我が身は智慧浅くして、いまだ地位に入らざれば、ということで阿弥陀仏の本願の念仏において往生されて菩薩であることになります。
生物の生存の在り方は害自害他、自障障他の悪を含み、凡庸以外ではありませんので、人間もまた凡夫以外の仏菩薩としての生存はあり得ません。ただ、人間の場合は、自らを見据えることは出来る。
そのことで自身を痛み、緩和し得る分野もあるわけです。
殊にはたらきとして、凡夫往生を定められたことが、まさに教を弘めて衆生済度していく菩薩ということに、受け止められていく。還相回向の菩薩そのもの。
シャカムニと親鸞の疑問点
再び迷いの生存に還らない
人民の為のはずの宗教、勝敗、差別化、社、連、党、国、地位、業績、生存、死、無、見解と識別、悲惨、懊悩、孤独、集合、変化と無変化、存在する、また、しない、あらゆるもの。
同時に全てが、人民の為になっていない面があるのでは、ありませんか。
それ故、それらが何一つとして碍げることがない自由を得、思いや感覚や気分のちっぽけさからも、受け止め難い生存や生物や宇宙自然の巨大で深遠な複雑さからも、解き放たれていくことも、願われました。
どうでしょうか?
呪縛となっているものの多くは皆、もと、人民の為にもあり、それをめざしてもいた。
差別化は自然の要請でありつつ、人為的社会的なそれは我々の歪みに起因するものでもあり、そこに鋭くつけ込んで来るものであるところに、厄介さがある。
忌避するものは何か?正統で普通の存在として定位され、受容されないものとは、何か?これは、惹起されるものとは、何か?こう自問するとき、明瞭となる。
差別しなくても満足される世界が要る、ということである。差別しなくてもいい、資格が無くても好い、評価があり、認められ、尊ばれる世界が、要るんです。
世界の創造です。改革、開放です。自由で解き放たれた友好関係の成立が重要。
最後の生存、最後の身体、迷いの生存。再び生まれない。インド的な聖者の到達点、虚空にして無、みたいなものを尊ぶ姿勢がある。
これは無自性空義から因縁起生滅における六道輪廻転生の命運の世界を厭い、また、無執着による、自由と解放であり、権力や政治や国家や多くの束縛を厭うのと同じであるが、生死と同視されると、本旨を損ない、早く死んだ方が好いんじゃないの、ということになる。
まあ、完全な解放は存命中にはあり得ないのだから、無いものねだりになるから、再びこの生存に還らない、という徹底性は分るが、明らかな行き過ぎだろう、ということである。
いずれにせよ、インド的な虚空、形無きもの、無に近い世界に進んでいく、聖者の年輪の如きものが、漂っている。
また、もうひとつインド的な在り方なんでしょうか、朝に教えを聞かば夕に死すとも可なり、と、真理実相に出遇えたならそれでいいんだ的な諦観がある。
いずれにしても初期仏教は知的面が強く、慈悲以上に真理探究する聖者の質を感じるのである。
にもかかわらず、限界状況と苦悩という事実の世界から、決別を主体化した功績はあるであろう。客観的には、どっちみち決別あるのみ、死や無が、個人としては、時には種としても、あるだけ、なのである。
ただ、それでも生きる意義、喜び、に於いて、やや薄い印象があるということです。
そしてまた、我々の在るがままの願いとしての大慈大悲四無量心等ではあるが、それ故須らく許されざる者であって、あらゆる法と宗教と思想と制度によっても同じく、裁きばかりになりがち。
無執着の思想はまた、人間尊重に気づくことを得て、囚われなく我々の依拠するものぜんぶから自由に、万民を受容し、自分の思いやスタンスを相対化するはたらきとも、なりうるわけです。
親鸞さんにも、時代と思想の枷がある。宗教的迫害と流罪時代ということからすれば、逡巡や躊躇も分るが。
菩提心、衆生利益の願心を本願に賜り、その願心に生まれながら、念仏信頼と幅広い理解の受容があるけれども、機の深信偏重で、いやいや往生なんぞとてもとても、ということがあり、仏菩薩や浄土の絶対化と共に、往けない世界にしたと感じます。
如来等同、弥勒等同、菩薩等同と仰り、かなり近づきながら、確信を持たれながら、人間に於ける、凡夫に於けるそのままの現世での成仏や往生については、とうとう否定され続けられたものと言えよう。
これはブッダ観と凡夫観に関係している。
蓮如さんも同様である。凡夫の仏になるこそ不思議、と言いながら、全てが死後に丸投げされているに過ぎない印象を憶える。
また、やはり機の深信偏重で、すくいということが、たすけることが、娑婆軽視になっている。娑婆えの凡夫庶民の暮らしについては、多分に見捨てられている。娑婆しか無いし煩悩しかない。だから煩悩即涅槃と仰りながら、である。
やはり世間的な解放、物質的な衣食住や生命ということも、尊いわけであるが、極めて薄いと言えよう。
疑謗縁信順因でこうした矛盾を我々は聞法の機縁とすべき。
ところでスッタニパータなどの慈悲の章は、やはりインド的なそれ、なのであろうか。
仏教には輪廻転生観と相まって、動物に身を捧げるなどの利他業の前生譚(ジャータカ)もある。
私は知らないが、バラモン教やヒンドゥー教で慈や悲についてのヴェーダ、ウパニシャッドその他典拠典籍とか、その定義について、先ず探る必要があることは言うまでもない。
愛情とか愛着、愛執など、さまざまに定義されるので、執着、識別選別、束縛とも取れることがあるし、しかし、情愛は自然なものでもあり、関心であり、無関心には慈も悲も無い。
同じように大事にしつつ、では、束縛するものと、解放するものとの違いは何か、という問いも生まれよう。
変化、因縁起生滅の流転輪廻、空無自性など、飛躍知見による発見と独創がシャカムニにはあるけれども、当代のイデオローグや伝承されて来た諸思想諸文化の中に萌芽態としてあったものが、仏教の中で質を変えて運用されていくことになった、という事態も生じたであろう。
まあ、主要な関心は、世界の諸宗教・諸思想の共通点として、大慈大悲という未来を拓いていく重要なモチーフがある、ということである。
人々を喜ぶ、共なる世界であり、同時にその共が友で在る世界、と翻訳できよう。
唯一、人類共通の憲章理念に出来るもの、人を喜び、害わず、尊ぶことを理念とする、ということである。
これは如来菩薩の本願ということが自己と人類の為になる救済、解放として表現される。
就中それを開いた48「別願」の第一第二に集中的に現れている無三悪趣の願は重要で、本セミナリオでは、尊び合えて認め合える、真の意味で大事にし合える世界の実現、を意味するものと受け止めて参ったわけです。
まあ厄介なのは直訳なのかどうか、流転輪廻観・死生観と申しますか死後観が混入してくるのがまたインド的、否、世界的ですから、漢訳異訳でも三悪道に対して禽獣・ねんどうの類、という訳が見られるけれども、趣旨からすると、大事にし合えない生まれ、と受け止める方が好いわけです。
ともあれ、要点をみますなら、人間を互いに喜べる、仲良き友になれる、尊び合えていく世界がめざされている。
翻って機の深信。我が身は遠く届かず。
ではどうするのか?
本願に生きるほか無いわけで、本願は本願、私の日常は私の日常、という在り方は、信心念仏の行者ではない。非常に多い在り方ですけど。
どうしても、何があろうと、我が身の悪きも妨げも顧みず、この道を往け、と。
志願や尊し。もちろん誰一人届かぬ底下凡愚悪人のままなれども、努めるものを願生者といただき摂取する、共に往生をめざさん、それが、如来菩薩の招喚のこえ、南無阿弥陀仏なんです。
言語を含めてほとんど知らない私には困難なことですけど、述べましたように、古代インド文化のパラダイムで、バラモン教・ヴェーダ・ウパニシャッドその他のコンテキストに迫ることから、シャカムニの在り方を求め直す。これはインディアン・カルチャーのパラダイムに於けるシャカムニであり、シャカムニ像をより包括的にするものと予想しています。
そして、分岐、分離分裂していった側面と、融合していった側面とは、どうか。矛盾していく側面と同一に近い面は何か。類似したジャイナ教とも関連しつつ、仏教や宗教以外の、例えば社会論や社会体制、世界認識、社会意識などの学術分野からの視点からも、さらに深い見識があるかも知れません。
こうしたこともテーマとなって来る。
もう一つの、人間観を窮める中での共同体論という困難な課題と共に、見直されるべきテーマではないかと思うんです。
時々刻々と質を深め続けている人間観にかかわる重要な研究テーマの一つと思います。
大慈大悲も六通も四無量心も人間関係、対他性ということに於いて成立している。
先ずは開祖が、一体、シャカムニがどういう人間観だったのか、当たり前で常識的に分かっているはずだと思われているでしょうけど、見直しておくことが重要なんです。
人間観なんぞが、どうして大事かと申しますと、日常生活の全部に関係している。
経済。仕事と生活、労働、消費と生産。
人間関係、私の好きな仲間・親友にポン友たち、恋人たち。
どうみているのか。
至るところで人民の為に、といっても、何が人間なのか、ハッキリしないことには、為になることになって行かん。為にならんことばかりやっている。
例えば、ちょっと根源的且つ客観科学的に過ぎるけれども、最大公約数的には、死後世界はともあれ、そして主体がどのように受け止めたり見直していくのかという問題が保留されるものの、死すべき(この「べき」は「であろう」の意)ものである、という人間観がある。
シャカムニの場合、必ずシャットダウンしてしまうような人間には拠れん、寄る辺にならん、と仰られるが、そう仰られた主体はといえば、求め願う主体である。不死を得る主体、なんです。
生きる、このように換言して構わないと受け止めています。
もう一つ申しますと、元に戻りますが、大慈大悲の私、人を喜び友たらんとする私も、確かに、あるんでしょう。現実の人間観です。
こちらの方は客観科学的に観察されるとはいえ、内なる事実なんでして、我が身の事実、しかも、価値ある事実、信を置くべきように感じる事実、でしょう。
するとこれは、大事にされるべき存在である、と。万民がそう願っとる、と。それで、たとえば経済政策はこれでいいか、となる。究極の精神的支柱は既に在り、大事なことだけれども。
また同時に、何事も、一事でも頑張れ、と、だが、あんまり無理すんな、と。そう大したもんにならんのが普通だし、なっても一時のこと、総体としての人生の諸要素の中で道を見失わずに、頑張るが肝要、とも、感じたりすることだって、あるわけです。
ただ、自我も大事、我を通すことも大事、争いも時には大事、しかも、正邪に関わらず辞めれない、これも事実ですが、よく吟味されるべき事実でしょう。
みんなの反対を押し切って防潮堤の高さを上げたことで、津波を防げて、みんながたすかった。これは結果オーライですけど、むしろ稀なのでは?
また、クーデターも革命も戦乱も望ましくない、とんでもない独裁や悪政で改善しなければならない地域もあるとしても、平和的に、が望ましいわけです。
民主制が無い所、長く政府がいくつもあって内戦が続くところでは、しかし、やむを得ないケースがある。
ですので、尚更、ことに民主制をお勧めするわけですが、軍事独裁の悪政に対しては、武力闘争を交えた反乱になるに、決まってるんです。避け難く、なる。
民主制にしておけば、悪政でも、一応、言い訳が出来る。公正な投票による政体であれば、たとえ人類的に間違った選択であろうと、人々の多数が支持している、と突っぱねることが出来るんです。
もちろん、完全な制度ではないから、独裁者以上に間違った選択をすることがあるかも知れない、という疑問点以外にも、まだ問題が残る。
例えば先ごろから少数民族の尊重とか、カナダなどに於ける先住民への文化押し付けという負の歴史の謝罪とかを述べたけど、異見と少数者は、民主だけでは尊重されないことがあるのであって、どうすればいいか、実は政治学や法学としてはなかなか奥深いテーマなんです。どうしようもないけども、何とかせんとあかん。
結果、民衆が抑圧から解放されるかどうか。よく吟味されるべきでしょう。どこまでも自力執心の世界ですから、政治的社会的な事柄には含みと幅を持たせないといけない。やはりバックボーンには大慈大悲の友たらという願心が欠けてはいけない、必要不可欠だ・・・と思います。
クドクド述べましたが、シャカムニ等のもろもろの如来菩薩は、差別と識別を好まないので、権力、法、強制力、宗教、倫理、行い、集まり等、全てを不問とするし、好まない。
ただ、人間を害うを厭う。これが如来菩薩の人間観ではないかと思います。
人間とは何であるか、人間を害うということはどういうことであるか、これも人間観である。述べるように限界状況に敗北してエゴイズムや争いを避け難いのも人間だが、人間を喜び友を求めるのが人間であり、生死を問わずニッバーナ(涅槃、安楽)を願い、苦を厭い、他者を慈しみ同悲し共苦し共感し、六通も四無量心も求めるのが人間である。
女性子ども、障がい者、被差別者、被占領者、被抑圧者を軸に、よく人間を観察して、道を導く必要がある。
こうした考えは概ねのところで万民の了解を得られるものといえるが、実際には、人間を害う奴隷化、イジメや差別・抑圧・分断・排除・融和、強制労働や低賃金劣悪な労働環境とか重労働など無権利状態の低生活強要、武力・監獄・法制などによる粗末化や殺害、人間の格付け、言語や視線や対応による差別、その他多くの悪事を、当然視する考え方と人々が、現代でもなお、大量に残存するのである。
改善しなくてはなるまい、ということですけど、その道もまた難しいんです。困りました。
🌟🌟🌟🌟🌟
元気いっぱい?!いろいろありますけど、明るくいきましょう!
連帯が大事です。まあ、連帯も、帰属も、元気も、もらうばかりでない、与えていく世界が一番好い。
身に備わるのが一番好いんでしょうけどね。
そうでない場合は、もらえなくなるどころでない、初めから人間性が奪われている。
生きていることとは・・・楽観視、前向き、向上心、如何にして死を迎えたら好いか、死後はどうなってる、等々の問いです。これ全部、生きたいから問うわけです。価値があるんですね、人生って。
まだ、あります。生きる意味って何だ、どうせ死ぬなら虚しかろう。もう、求めて止まん。願い、求めがある。
ところがそれは、なおそれとして自己を十分には表現していない未生態、可能態であって、奥深過ぎるのか、世間に探し難いものなのか、主体にも、なお、まだそれとして全く、あるいはきわめてぼんやりとした薄紙一枚の霧の彼方のようにしか、意識されて来ない
問う前に既に、生きているということは、そういうことです。いのちが、生きる価値を既に知っている。
アタマじゃないんです。人間はアタマがでっかくなって、分からなくなったこともあるんです。
いのちの意味は何だ?と。
さあ。だが、価値はある。
万象がいのちの要件として価値があるということなんです。自分の思う願望やメリットばかりが価値じゃない。いのちは自身を価値として知っていて、尊んでいる。
もしもいのちの意味を思いめぐらせるなら、それはいのちに価値あることを示している。食物連鎖も価値なら、連帯も価値で、困ったもんだが、これがいのちなんだ。
ただ、生命に価値があるんだが、辛い、迷うことがある。一つはアタマの陥穽だ。もう一つは、生活の歪みだ。
さらに問題なのは、周囲だ。決して見逃してはならないポイントです。融和主義と悪しき生活環境もイジメも、自身の姿勢で何とかなるケースと、そうでないケースがある。誤魔化しは、許容してはならんのです。
チェンジしていく必要がある。まあ、面倒だし難しいから、放置しても構わんけども、自分を責めるべきでないのに責めることは辞めるべきでしょうね。
まあ、一番面倒なのは、人間観と人間関係観が間違っているから、温かくない点と、もう一つ、知らないから、なんです。
色々知っているが、人間は、自分自身については、よく知らないし、加えて、そのとき、その人がどういう思いや状態であって、どういう風にすれば明るくなれるのか、を知らない。
いろんな思いで対応するけども、当たらないことが多いでしょうね。
周囲、外部と言ったが、要するに自分もその中にあって加担しているわけだが、人間関係が悪いんです。
関係の悪さが、それぞれの人の世界みたいなもんになっている。相互に争っていても、尊重し合う必要があるんです。
温かい点については究極は悪も受容する。娑婆通らんけども、そのままで仕方が無い。反省も無いし改心も無い、回心も無いけども、大事は大事、ということだけは、ある。誰でも生きているだけで価値がある。
まあ、既にお亡くなりの大悪党の方は構いません、死後もずうっと批判は必要ですが、尊い命に変わりはありませんから、ほとけの世界として扱ってもよいのでしょう。
生存中はあんまり悪だと、拘束されて暮らして貰わんといかんけども、アタマや行い以外の、いのちの部分が尊いんです。権利保障をすべきと考える次第です。
もちろん同時に、自他ともに害を及ぼす些細な悪も、毛も寸分も微塵も瞬時も許してはいけません。
悪人でない人間も一人も居られません。戦乱や死刑制度や犯罪見過ごしなどで、よい子も、人殺しさえも加担させられてきた。とても許容する気になれないから、殺し合いをしなきゃいけないようになったのは、どうして?と内で問うことだってあるわけです。これも、理屈は色々付与されてるけど、理由にはならんのです。
ともあれ、あらゆる問題点の改善を求めるし必要だが、どうでしょうね。治りますかね?
治る治らんにかかわらず、自己改革を進めるのが菩薩道ですが、治らんことばかりです。
内発の動機や深い拠点を持つ。往生って、成道って、そういう連帯的な、友なる世界に生まれることです。
ニッバーナ、往生安楽国は、入滅=死も、生も、超えて、生まれていく世界なんです。まあこれ、シャカムニの圧倒的で徹底的な命運の世界の超越とは微妙に重なったり逸れたりするかも知れませんけども。
自信を持って、歩め、と。
もちろん、友なる世界を求めようとしない人や人間尊重に背く者は、相手にしてはなりません、というのがシャカムニの教えですが、可能の限り相手にすべきなんでしょう。
仏とは何か?智慧であって慈悲であるけれども、主体としてはこれは、大変革であり、実践課題であり、共同体です。
もちろん、以前からみて参りました通り、宗教は元来、グローバルなものなんです。
余談
・・・余談ながら若い頃は、私、至る処で人民の為に、革命をめざしてました。一時期は革命家でしたし、自らそう名乗っても、いました。
けども、民衆の意識や感覚に合致しないし、運動の実態も目的自体も疑問が大きくなりましたし、権力を首とする政治と集まり等々自体が今度は課題になって来ましたし、平和的方向を熱愛するようになり、博愛的にAIに惹かれ、多くの救援事業も強くサポートしていくことにもなりました。
ブンドの先生方とも分岐気味となり、愈々、根源的に革命を目指し始めたのかも知れません。より本質的で徹底的なチェンジを求め始めたと思います。
まあ、二十歳過ぎの頃には同時に既に、主要な関心事に仲間友人恋愛と研究を挙げ、職革には向いていない自覚めいたことも、したためていたわけです。また、我々は労働者とか生産者とか定義される者でありながら、端的に生きている者、私、でもある、とも。今も大人しくて物静かな学究肌のアーティストを標榜してる通り、テーマを求めて行く職人みたいでして、政治面は疎かになりがちに。
今になって考えてみますと、もともと宇宙から目線でしたから、グローバルなことしか分からないし、それも大雑把なスケルトンのパースしか見えん。
ん・・・いや、内奥の細部のひだとか琴線とか胸のゴリゴリとか暗澹たる気分とか辛さ、明日の予定とか目先の仕事に拘泥されるとか、ちょっとだけは文学も、分かるのかも知れませんけど。
ただ一言申し添えますなら、どんな分野も仕事も、はまり役の適任者のほかに、たまには向いとらん者も、必要なんです。
双方とも、殻が打ち破られて好き質へと展開していく可能性が生まれる。
しばらく保守されて安定的に続けようという自己完結型も大事ながら、いつかは桎梏物となっていく殻が破れなくなりがちでは、ありませんか?
また、なおそれと呼べぬ萌芽態でさえ無い如き怪しい「回心」ながら、転回がありまして、学仏学道などせんならんことが多いので、消極参加、市民運動に消極協力程度だろうな、って感じになっていくわけです。個人の動きとしては微力を尽くしますけど、ごく小さい範囲で非力。
まあ、言い訳はしません、遊学ならぬ学(レ点)遊の時間が、仄かに、多めだったのかも知れません。
ところが気が付いたら、自分自身の身心全体が変わった、内的な革命が起こったのかも知れません。
人間のフル・モデルチェンジ言いますか、人間革命なんて言った人がありますけど、大変革になった、かも、知れませんね。
すいません、底下凡愚悪人のまま、間に合わんまま、については、これはもう、どうしようもない、変えようがありませんけど。
今やさらに、人民はアナーキーでプライヴィットでスケベで・・・って感じで、まさに分離分裂が主要なディアレクティクそのものじゃないか、同時に数方向に意識が働いたり、離れてても類似の動きがあるあたりも、量子と同じやないか、っていう人間観みたいな・・・。
今では主に西側と一緒に人民主権、権利保障、保護防衛と解放を進めている感が強いですし、「人民」も多数の労働者中心で構わないけども、やはり困窮者の保護と解放が大事ですし、各層の全人民の政治、ということになってますので、能う限り大所有層も尊重。
一代仏教と同じく、至るところで人民の為になることを求め続ける。この点には何の変化も無いんです。
私自身は自由にして、地位や身分や出身や血筋はもちろん排し、資格やスタンスや宗教・思想も不問にして無差別ながら、同じく、こだわりを持たれる方には、可能の限りは、配慮もしてます。
制度上も、体制批判も、めざすべき状態も、かなりハッキリした部分がありますし、問題点の批判と解決を呼びかけ続けますけど、実態に即して体制を受け止めつつも、ずーっと改善改革を要請し続けるのみ。
Coup d'état状態のままの国、帝政や王政もあり、一応容認しつつも、無差別平等と民主制度と人間尊重、人権尊重の推奨を続けているわけです。
ちなみに、過去、史劇にも倣ったかにみえる共産党独裁姿勢共鳴の頃なら、むしろCoup d'étatとか歓迎していたものです。
だが、ブント型の思想と運動と人間観を更に深化させ改革してアウフヘーベンする中で、党派の独占独裁はもはや反動、歴史の桎梏物、人民の敵に過ぎない面が明らかになった数十年前以降は、党派と権力性自体も否定的にみすえつつ、民主的なソビエト(合議、会議)によるコミューン(共同体)を推進して来たわけです。
毛さんなどは、社会主義は人民の為になる制度だから、革命戦争で人類の半数が死んでも進めるべきだ、などと仰られたが、人民の為にという願心だけは好いとしても、そこに人間を害う政治や軍事の濁りも混入しているし、明らかに反人民的な多くを含むことが、現代史の中でハッキリしたわけでしょう。
閑話休題
閑話休題的に革命という文字、いま諸橋大漢和辞典引きませんけど、弥勒の「勒」とか、改めていくということでしょう。
けれども政治革命、権力闘争でラジカルのイメージが強いですね。
政治的には急進的で、悪質な運動体の革命やCoup d'étatは被害が大きく、自らも人々も世界中も、悪影響して害う。ですから結果としては残念ながらハンナ・アーレントの言うような難民流民だらけ、兵隊だらけの惨状になった。
あまりそうしたことの必要がない政治体制と政治情況が、求められましょう。
ところがそうでないことがしばしばあるもんだから、悪影響になって、反乱や暴動、クーデターや革命も、たまに起こるわけです。
もちろん、命を革むということが、命令する君主やドンが変わるだけ、ってのでは困ります。
いのちが革まる、ということなら、宗教上不可欠に近いんですけども、一般にそうした意味には語用しません。
革命は戦乱を伴うことが多かったので、どちらに責任があるか、両方に在るか、とは無関係に、好印象を持たれないし、戦争と革命、クーデターで多くの被害と犠牲が、いろんな層やグループに強いられていく。
争いの中で生まれるので自ずと、ラジカルな面だけではなく、偏狭で独裁的で排他的な傾向が強く、このため、一般には一層、忌避されるようになった。
また、運動主体と言う観点からみますと修正主義批判、査問や裁判や粛清、綱紀粛正その他、主体の間の党内闘争党派闘争が更に激化し、拉致拘束テロが横行したわけですから、こうした点からも、闘争中心になり、偏狭で独裁的で排他的な傾向が強くなっていくに、決まっています。
用語も、私は改革、チェンジや変革を用いますが、その程度で十分ではないかと感じています。で、民主党政権の発足に際しましても、革命って・・・激し過ぎるんやないの?と。
さらに、人民の為に、ですが、人民の為になっているか、どうか。一人の人間の好き在り方と世界を求める、それぞれの異なれる一人のためになることだけを求めるべきです。
中国と一緒に、嘗て敵視していた「ソ」「連」社会帝国主義、ロシア、アメリカ合衆国も、今では友好的ですし評価点も持ちますし、反面、中国には批判点が増えてしまいました。
米「ソ」に対しては帝国主義的侵略批判、差別と民衆迫害と無権利状態批判でしたが、中国は遅れた体制、ということでした。「ソ」「連」崩壊後も中国ではどんどんこうした時宜に適わない政治体制の問題点が悪化し、めざすべき体制との乖離が激しくなった、ということもあります。
ですから、やはり友好ばかりという分けには参りませんし、批判は続くし、変革を願っています。
ロシア人民であろうと中国人民であろうとアメリカ人民であろうと、保護され解放されるべき点は、同じ。批判点も沢山あるわけです。
和合僧、サンガということがございまして、社会や政治に於いても、多様な民意民心に応えるには、人民主権、民主的選挙等のもとで、一人の尊重を心掛け物質化していく以外にはない。
ただし、見極めが困難ながら、軍事独裁政権などの圧政下で人権や生存が保障されない状態の地域及び内戦状態にある地域でのラジカルな革命やCoup d'étatについては、容認することがある。
ですが、穏やかで平和的、友好的な内に、政治経済社会も私生活も、何事も、好き方向へチェンジされることが望ましいですね。クーデター、レヴォリューションについても、穏やかに対話と友好の内に遂行されることが、人民の願い。
もちろん臨時政権などの場合も、早々に普通選挙により自らの正統性を各勢力が競わなくてはならないでしょう。
もちろん、帝政王政であっても、民主制度以上に人民の為になり、人権が尊重され一人が尊重され民主的であるなら、一応議会制民主主義制度を要請しながらも、許容度は更に増すことになります。
逆に、民主制を標榜しながら、共同体の多数が差別・分断・排除・抑圧に偏向するようなら、厳しい批判は免れないでしょうね。こうした傾向は大統領制や主席制など疑似帝政ばかりか、政党政治にも色濃く、民主政治にかかる問題点として、政治学のテーマかも知れません。法制からするオンブズマンなどの制度、人権条項により是正のための調整機能が要るでしょう。
以前から述べます通り、人民の人民による政治であっても、人民の為になっているとは限らない。
それゆえ、偏に、人民の為になるかどうかだけを、追及すべきだと申し上げるわけです。
この点からも、ですから、政治や社会に取り組むに当たっては、チェンジし続ける含みと幅が願われます。
戻ります。止滅、という二文字を以前定義しましたが、思想問題でもあるので、このHPで取り扱いましたっけ?スペースでしたか?
何でもそのままで壁にならない、相互に好いものをもたらす性質に、チェンジする。変革です。まあ、そのまま無くして好いもんも沢山あるんでしょうね。
生存はもちろんなお苦しいけれども、無自性空で無執着であって大慈大悲・六通・四無量心が真我としてひらかれた人間になる。
輝き合い、輝かせ合えていく、喜び合える、自由で友であれる人間同士の世界が開かれて来る、といっても、過言ではありません。
依然として万象がそれでありながら、壁や害毒とならずに。
まあ、無理だが、常に目指すべし、と。そうしたい、ということです。
自然のはたらきを抑制することは、無理があるし、自然に沿えば、進め易かろう。
有理であるし、ただ、自然に有理なばかりでない、様々の自然性があるから、相互を害わない慈しみ合う自然性に於いて有理である、ということです。
念仏=信心=本願往生が易いけれども、これは反って極難至難難中之難とされ、一見するととても難しくて無理、に思われて来たんです。
しかし、水道方式でして自然に沿う。親鸞さんのお正信偈に、祖師がシャカムニ同等の方と評価して居られた龍樹大師の讃があります。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまはく、
南天竺(南印度)に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破
せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せ
しむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。
流れに竿さして沈んだり、激流に飲み込まれたり、漂い彷徨うばかりの私らが、仏意及び願心の受領で、楽々と往く。
えぴ
以上で断片のアップを終えます。長くなって、すいません。
校正については、俺に出来るかなあ・・・。まあ、もう少し、続けてみます。
ともあれ、たすからん℃~ながら、能う限り、手を差し伸べ合う試みを、続けてみませんか?
素晴らしい時代でして、災害と疫癘の時節乍ら、コロナ・ワクチンといわずオリンピックと言わず、人智自力を尽くしていただき、科学的な生老病死への対抗の力を備えさせて貰いました。
各位のご尽力に深謝するばかりです。
けれども同時に、自身自力や人智を超えた世界に呼び覚まされ、愈々、自身の中心たる存在の淵源にも遡求して来られたことと、かしづきて敬礼いたしております。
コロナ禍のなかで可能の在り方を模索し、結果、私を超えたダルマの世界が遍満するままに、報恩講引上並永代読経会が円成され、好い法会になりました。殊に、共々にお慶び申し上げます。
既に当日法話のプリントにかかる趣旨はアップいたしましたが、ただ、あまり長く攻究と展開を離れてましたので、展開の到達情況を忘れちゃいました。
このため、先ずはコラム「還りの在り処」からアップしました講録をお浚えいたし、その上で更なる講讃に備えたいと存じますが、まとめ直しもかなり手がかかりますのでやめて、梅雨前に書き留めてあったものに手を加え、本講をアップさせていただくことにしました。
折しも、幣派では宗会改選もありましたが、先ごろ、現職の宗務総長が病没されました。衷心より哀悼の意を表します。現職ですと宗派葬が妥当とも感じますが・・・。
改めまして、人類的連帯の底流としての大慈大悲・宗教不問ということを踏まえながらも、引き続き、さまざまな運動体・宗教教団・仏教各派に於かれても、至るところで人民の為に、鋭意、教相判釈、延いては教相再構成推進をお願いしたいです。
殊に幣派に於きましては、既に教相と教判の問題点が分かっていながら、「知らぬ顔の半兵衛」は通りません。
時・機、いずれにも相応の改革を強く要請します。
今後新総長が推挙され新内局が組織されることと思いますが、総長代理がそのまま女性総長になられ、宗門全体で支えていく体制が望ましいと考えています。
真宗は女。先に住職個人のHP「淳一のスペース」で娘覚信尼公に宛てた恵信尼公消息を紹介してみましたが、初代の本願寺留守(職)も覚信尼公(親鸞さんの末娘)という女性です。その後法主、法嗣は男ですが、そこに覚信尼公が廟所を寄進することから本願寺教団がはじまっていく。
※註;「時機」は正像末和讃にも次のように語用されています。
五濁の時機いたりては 正法の時機とおもへども 時機相応の法なれば
浩宮さんと雅子さんの即位の際の令和という「元号」で少し見てみましたが、時というのは、科学的客観的時間、宇宙歴であると同時に、時評という人間社会的時間でもあり、更に、支配層の時間だったり、共同体の時間だったり、キリスト歴やイスラム歴や仏歴などの人類的な時間でもあります。
しかし何よりも、機として賜りたる私の時間、であるわけでしょう。
私だけの、あなた一人の所有ではありませんけれども、私抜きの時間は私にとって意味をなさないかも、知れませんね。
ご成婚何周年とか、勤務してから何年とか、高校51年生とか、大学48回生とか、そこから人生が始まった生涯時間だったり、しませんか?コロナで鬱屈して居られるたすけになるかどうか、以前「淳一のスペース」で「now、the era is you」と励ましを試みましたが、時間とは、あなたの人生、あなたの時代と時間でも、あるんです。
親鸞さんの場合は、御自身の年齢でもあるわけです。
そして〇〇歳のとき、仏法にかかるこうした出来事があり、こうした考察が為された、という記録になっている。時間とか時代というものが、どこどこまでも自分に引き据えた、身の事実になっていらっしゃるわけです。強い使命感、抱負、死が意識されていることがあるかも、知れません。俺が俺がの自己主張、自己関心ではないと思いますけど・・・。
時間は、如来菩薩の仏意願心を賜った者からするなら、疑いもなく、如来菩薩へと機織(はたお)られていく私の時間なんです。
機法の時間、機法一体の時間ではないでしょうか。
Ⅰ 明らかになった事実
①たすからん℃。
我々のたすかりの方は、十全では無いとしても結構前から明らかになっていましたから、必要な展開は半ば終えていたわけです。
それで以心伝心では先生方としても、何度も、もう終わった、ということになっていたわけですが、細部や我々の有様の方は、まだずっと詰められていくわけです。
しかし、佳境に入ってから探求は困難を窮め続けましたが、大分進みまして、とうとう、これで分かった、というところまで往かれたと同時に、たすからないことも、愈々、鮮明になってしまいました。
因縁起生滅・曠劫来流転輪廻の凡夫、命運界脱せず、達して愈々究むべし、苦集滅に道あり、道続く、と。
いのちというものの「たすからん℃~」が絶対やった℃~、っていうことが、分かったわけです。好い質になった、と受け止めている次第です。
いのち尊ばれるべし、ですから、生存中の暮らしが大事ですが、同時に娑婆世間でのたすかりは、小事も小願も容易ではない。
生存自体も保護が困難である。
政治や経済や三悪道その他いくつかのテーマは克服が願われ、緩和されていく可能性があるが、根源的に無理なものが孕まれているのがいのち、生存なんです。
で、たすからん、と。そのたすからん者が、たすかっていくんです。・・・まあ、たすかりと申しましても、唯の凡夫、唯凡の在家仏教ですから俗仏ですけど、仏になっていく。
ただ、視点の転換は容易ではないから、比較的たすかって往き易い分野でも、万民が時間なども自由に可能の範囲で勤労参加できるし、もっと豊かになれるし、保障を受けられるし、友となれるし、好い体制を手に入れることもできるが、どうも、どれもが難しい部類になってしまっている。
まあ、全部うまくいっても、願心を中心にしていかない限り、やはり、たすからんのです。
たすからんままの日ごろの姿は、『歎異抄』第9章に集中的に表現されていて、たすからん姿が鮮明に描かれている。この描写のおかげで、我々は自らの病巣を知ることが出来るわけです。
これが遺されていたことで、本願に出遇いながら、喜ぼうともしない、日常のままの我々が、描き出されており、願心が何ら機能して来ない状態や、往きたくならない世界としての浄土観が、ハッキリした、わけです。
もしこうした描写が遺されていないと、どうしても、法の深信で容易に歓喜勇躍する姿ばかりが遺されて、我々の実態が示されなくなっていたかも知れません。
これはコラム「願心にもたらされる人生」で集中的に取り上げ、考えてみたし、コラム「見解と識別にかかる一復演」の中の「私的レビュー」でもずっと意識していたわけですが、否定的に捉えて参ったわけです。
しかし、この遺教が私たちを示すものとして説かれたことの意義は、観経の凡夫成道と同じく、非常に大きくて深いんです。
似て非なるほど異なり、視点の転換、というより、全く新たに披かれた。
世界の根源を流れる大慈大悲の願心に拠られていく。大衆的な願いを覆して、脱せしめ、反って願いを成就していく。
②完全無欠にして一点の曇りも無きたすかり
けれども、その我々がたすかっていく。
正しく願心を賜った一点で、たすかるんです。
真っ直ぐに希望と信頼に満ちた世界に向かって往き、還っては、聞法や念仏を中心としつつ、世間の諸事に対しても務めを為していく。まあ、何ほどもなし得なくても、全く構わんわけです。
雲霧之下明無暗ということで、煩悩具足の凡夫ですから、紺碧の海とか、私の赴くゲレンデみたいに雲一つない澄み切った真っ青な空、ってわけにはいかん、澄み切って晴れ渡ったなんど申す向きは、如何やらん・・・と。
大丈夫です。ご安心ください。
③たすからん暮らしに還る
私を超えた本尊とその世界に下がったアタマが、上がって振り返った瞬間、殊勝の気持ちも何処へやら、ハイ、たすからん底下の凡愚、極重の悪人に戻ります。
けれども、ただ、戻るんじゃない。還る、ということなんです。
個人の回心は簡単明瞭で、非常に易行。
しかし、意識改革とか改心となると、いきなり娑婆のテーマになっちゃいまして、もう、難しいばかりなんでしょう。
これが共同体、社会に真向かうとなりますと、さらに、知らんでは済まない、それなりの学びと考察も要るわけでしょう。
しかも、これで好い、は無い。元々、生き物には無いけれども、生物的変化にも無いし、体制にも無いから、ずっと憶念してこれは常に自らを問い問い返し、責めなくて好いけれども許さずに居て、常にずーっと浚え(さらえ)、浚え返し続けていく必要があります。
人類的個人としての、また共同体としての機の深信をたもたなくてはいけない。自らを滅ぼし尽くして、棄て去って、捨てることで創造しなくては。
一文不知も在家の尼入道も差別と言われたりしたけれども、一文不知で構わない、回心には、全く妨げになりません。どなたにも備わる身の事実、自然の理に適うだけ、気づいていくだけなんです。子どもさんも即得の仏菩薩の世界ということです。
けれども、やはり、常に身を問い問い返し、責めなくて好いけれども許さずに居て、常にずーっと浚え、浚え返し続けていく必要はあります。
まあ、いろいろなものが含まれるんでしょうけど、聞法というのは、そういうことだと思います。
いくつかのテーマに沿うスローガンについて
先に、如来菩薩の仏意・願心に出遇って、生き直さんと志願する人生に披かれて来るスローガンを、いくつか提起してみました。
ただ、長くAIに学び、国連に学び、人々の為になる、最大公約数的なスローガンの制定・・・同じ人類共通面でも、プライヴィット過ぎる人類的個人の面が大きなウエイトを占める私には、ちょっと縁遠いテーマになります。
あれこれ過去の学びや史実を見直す中で、言ってみれば漂流する中で、何とか辿り着いて来たと思いますし、一貫して最初からそうだったと言えるほどのものではありません。
過去、感じて来たこと、思惟を巡らせてきたことの中で、現在に於いて曖昧さが取れてスッキリした内容もあるかも知れませんが、実生活も社会的現実も、見究め自体が困難なまま、なのでしょう。
しかし改めて、例えばAIのテーマ、STOP〇〇等々については、今なお繰り返されている非人間的な有様なのであって、無くなっているわけではない。
続いている現実、なんです。であるからこそ、死を覚悟するのが人生ながら、死も苦悩も、厭うのが生命。生命の願いに応え、一人の犠牲も出さずに、全ての子が天寿を全うできる世界を創造されたい、ということです。
個の狭い範囲の苦悩さえ、受け容れ難く、身を倒す。ならば相互にそれ以上の苦悩を受けるべきではありません。
無作為に抽出された如何なる一人も尊重する人権、各種の権利というものは、殊に博愛、大慈大悲の、人間を喜ぶ友なる世界をベースとし、独占・独裁・独善を排するもの、寛大と寛容と換言してもよいでしょう。
自らの思想と運動が大事なら、他者のものも尊重しなくてはならない。これはまた、矛盾こそが事態を深化発展させることがあることによっても、基礎せられましょう。
たとえ間違っていても、思想や政策や行いは反面教師として取り組まれる。ただ・・・実際の好もしからざる行動については、間違うと取り締まりの対象となるでしょうけれども。
ただ、権利保障と自由には、独裁・独占・独善の排除と、寛大と寛容だけは、必要なんです。許容しない、赦さないとしても、処遇と対人関係は常に寛容であれ、と思いますし、許容範囲のことは能う限り赦されて構わない、とも思います。
裁きと寛容及び赦し、というダブルスタンダードも、博愛、大慈大悲の、人間を喜ぶ友なる世界という出発点に於いて一つであり、どこから裁きと寛容及び赦しが湧いてくるのか、出発した根拠を見直される必要がありましょう。
まあ、人間社会、敵を招くのか、友を招くのか。
争いの中でも、相互に尊重し合い発展し合うのか、害い合って、壊死するものを内に多く抱えていくのか。
一が他を食い破るばかりでなく、各部分が統合して別の質の一になるばかりでなく、分岐分裂と矛盾には、多くの展開値と可能性があるわけです。
相互に尊び合えて認め合えていく、無三悪趣の在り方が、願われるばかりです。
成敗、法度。成敗いたす、御法度、など、法というものは制限と強制力を意味する。
戦争だから、仕方が無い、そうした社会通念になっている無差別大量虐殺ということがあるわけですが、改めて、民主社会における好き社会の為の法制と、その理念の啓発が願われています。
好き社会の為の、好き法に拠る法治のもと、人類社会が創造されていくべきと思いますが、先ずは、現行法の見直しや実効化から。
また、過去の法だけでなく現在の法と理念から、過去の事件を見直すことも必要でしょう。
今年も8月には広島・長崎の季節を迎えましたが、無差別戦略爆撃や先住民・少数民族への生活文化強要、アウシュビッツ他民族浄化と無差別ジェノサイド、民間人大量虐殺など、世界的に、至るところで、謝罪が為される時代を迎えることが出来ました。
問題視と謝罪は、至るところで友好と平和と安定を創造し、人民の為になっているんです。
しかし今なお、反省されておらず、謝罪もなされていない無数の大量虐殺が、世界中で残っています。
先ずは機会をみて、我が国による重慶などや、同盟国のはずのアメリカ合衆国による東京・ヒロシマ・ナガサキ、朝鮮戦争とベトナム北爆、アラブの度重なる無差別爆撃などの謝罪を含め、この際、まだ為されていない事柄を見直していくべきと思います。
無差別殺戮を許さない。それが人間の尊重であり、反戦なんです。
以下20211012追記
先に挙げたスローガンについて、以心伝心でTさんから「理想論だ」という声がありましたけど、これらのスローガンのどこが、理想論なのか?
体が痛むという、現実の肌感覚の問題ばかりのはずです。
それも、全部ではない、まだまだたくさんあるわけでしょう、私が気づいて精査した事柄なんぞ、極々僅か、氷山の一角に過ぎないと思います。
国会の論議で分からなくなってるんじゃないか、と感じるわけです。
私も国民としての責任、世界人民としての責任、如来の責任があるから、色々発信して、間違った点もあったかも知れない、給料もらってないけど議員さん官僚さんに連座して批判を受けなくちゃいけないかも知れないけど、多くの方々はコロナで溜まってますから、国会議員さん全員を憎んでるんですよ、本当は。
「これまで」を見る限り、どの政党にも、「これから」への期待感も限りなく薄いんです。コロナに限っては、誰がやっても、何かいい方法があったのかどうか大いに疑問だし、国会だけの責任じゃないけど。
気色ばんで声を荒げるのは辞めたわけですけど、まあ、日本だけの問題じゃないわけで、失礼の段はお詫びしますけども、問題をクリヤすべく、好い政策を提示いただきたいと思います。
さて、高齢者、障がい者、女性、若者、これはヒステリックに強く主張されることがあって、その為、誤解を招くことがあるわけです。
先に女性の置かれた境涯について気づいたわけですけど、強く主張しないと男には分かってもらえないことが多いんです。事実、私も気づき始めたのは最近。同じ女にも分かってもらえない。
障がい者も、健康な人だけじゃない、多少障害があっても健康志向の強い人には分かってもらえない。
病人も、誰かに伝えておかないと、発作が起こると生死の境をさまようことがあるケースがあるが、普通に暮らせる程度の病弱者にも、分からない。
高齢者の不自由も、若いもんには分らんのです。分ろうとも思わない。忙しいし。
若者、子どもと外人も同じなんですけど、ま、労働者も組合もそうした面が強いけども、立場が弱いから、言えない。片や、親と学校、職場と言う絶対権力があって、これはもう、それを好いことに、やりたい放題のケースが、しばしば見受けられるわけです。
子ども、児童も生徒も立場が弱いから、声を上げられないことが、まま、ある。
外人に至っては、地位のある人はともかく、一般に少数派ですから、特に争乱に近い状態の地域ですと、下手をすると殺される、みたいな・・・。もう、悶々とするほかないかもしれないわけです。
こうしたことは、自由社会、民主社会とは程遠い状態にあることを示唆しておりますので、出入国、生活基盤たる経営や就労その他、人権に配慮されていくことが強く願われているものと受け止めるわけです。
それで、具体的な運動と言うことになると、政策、制度の提示と創造になってくる。
特に若い頃はラジカルで、我が身も顧みず激しい表現ばかりになっていく。選挙戦もその分野に特化してアタマがおかしくなり、熱中するわけですから似たようなもんでしょうけど。
女性外人若者と言う主体ですと、多かれ少なかれ若者はラジカルで万事拘泥を好みますし、いずれも立場上かなり強硬にアッピールしないと聞いてもらえない如き立場ですので、なるべく穏やかに、と言いたいわけですけど、無理。
まあ、それも若者とか、その分野での女性も外人も新人フレッシュ世代は、かなり活発にラジカルにもっていく行動力が伴うから、チェンジも実行していくんでしょうけど、これは年寄り組に対しては、覚めた気持ちと冷ややかな視線しかもたらさない。
それと、ただでさえ課題は重くて大きく棚上げにされるわけですけど、現に問題で苦しんでるわけですから口を酸っぱくして言い続けるということで、エリートさん方にとりましては、あの人たちはうるさい、面倒を起こす、何とか体よく引き取ってもらうにはどうすればいい、となる。解放同盟の糾弾と同じです。
また、私らがそうでしたけど、はじめの内は、なお、謙虚さも内省もあるわけですが、長く続けますと、身に付いてボケて来ることもありますし、周りの「ベテラン」をみても、彼我ともに、自省する風も無く、逆に自信過剰でツッパリと居直りを崩さないことに気づくわけで、自ずと自分もそうなっていくんですね、政治とか社会の世界っていうのは。
まあ、何らかのモメントが無いことには、容易に脱却することが無い。確かに自信を持ってしっかり執着して続けるべき質もあるわけですけど、如何なものか、とも、感じられることになる。
なかなか難しいものもあると思いますけど、推進しなくてはならない人間の生活の防衛や、差別や抑圧など多くの困窮からの解放なので、頑張るっきゃない。
出来る限り温厚に穏健に、末永く推進されることを願ってます。
中間コメント
要するに親鸞さんという方も、念仏=本願=信心。菩提心がある。我まさに仏教に相応せん、ということが普通の求道者の姿勢と思います。
しかしもちろん、身は底下の凡夫、愚人にして悪人、とてもとても・・・ということもあるんです。
結果や可否から申しますならば、仏にても不可。
ただ、志願います。念仏本願のみぞ、まことにて、おはします、ということでしょう。
還りの在り処をめぐるいくつもの断片を、このまま本コラムに追記しておきます。散乱放逸で恐縮ですが、
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
D--
(36)
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(37)
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
(38)
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
ということで・・・。
御和讃のこのくだりは、「now、the era is you」っていう娑婆丸出しの近代的自我に依拠し抜く私の励ましと違い、親鸞さんなりの、万民への励ましなんです。苦海に沈む私たちには、如来の本願から、教相回向という摂取不捨が為されている、と。
・・・ちなみに、2019年に「スペース」の古いコラムを削除してるうち、その年の2月7日から10月23日までのコラムを間違って全部削除してしまい、社会論については概ね展開されているから差し支えないとして、一番大事にしているディアレクティクとかメタフィジックとか止滅と死滅など、思考とか認識とか意識自体を攻究したコラムが残っているか、大慌てで探し直した、という私的大事件がありました。
その際、せっかく浩宮さんと雅子さんご即位にコメントしたコラムも消失してしまいましたが、要するにかつての支配層であり、人民主権且ついのちは平等であるから差別性は留意されるが、現在は戦犯でも無く、むしろとてもよくやって居られるので、戦後の国民の多数と皇室の願いに沿い存続されて構わないし、それなりのサポートも続けられるべき、という現状容認です。
まあこの事件で自分の関心事が改めて分ったわけで、世間話も出来んバカ、のままなのかも知れませんね。
🌞🌞🌞🌞🌞
Ⅱ いくつかの断片
如来菩薩道への、我々の可能性
ちょっとまえ、お浚い的な断片の中で仏を挙げましたが、ブッダは法身。
法身というのは法身法体、ダルマが身体に現れた人、なんです。必ずしも言葉で現わされる事ばかりではありませんが、法体が、身に備わる人。
法自体は自然、におい・姿・かたち無きものですが、身が頷くから、法を賜られた身を示しても居られます。法が生身になる。
それが全部詰まったのが、南無と阿弥陀仏という、蓮如さんによりますなら機と法が一体となった名号です。
機法が備わらんと仏でない。如来菩薩の道でないんです。真如実相があったとしましても、身に実現して初めて、私に法が顕現していく。
ですので、御仏像よりも御絵像、御絵像よりも御名号、といわれましたし、名号よりも称名、称名よりも自内仏かも知れませんが、ダルマそのものである。
ダルマは人間に体現されないと、私とは関係の薄いものとなります。
ダルマが人間に体現された時、人を輝かせていきますし、サンガということが備えられるんです。
ですから御仏像も御絵像も、法を体現して説法する教主と、サンガを表現しております。
一切経全部が人間の為にあるけれども、もとより、述べました通り、大慈大悲、四無量心、六通の意味もまた、深い対他性なんです。博愛と関係性の完成を意味しています。
まあ、狭い朋(法)友ばかりのサンガ内ばかりでない、異なれる人たちをも包摂する如き、寛容で温厚な関係を求めるはず、でありましょう。
先日もお引上げのプリントにしましたが、これまでもふれました通り、さとりの授記にみられる教相の問題につきましては、報恩講の御和讃、「弥陀大悲の誓願を」の中に、
(54)
弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなふべし
(55)
聖道門のひとはみな
自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば
義なきを義とすと信知せり
(56)
釈迦の教法ましませど
修すべき有情のなきゆゑに
さとりうるもの末法に
一人もあらじとときたまふ
とございますように、釈迦さとりの授記の質とは異なる、いのちに本来備われる(大慈大悲が)流れて居り、これが主要なものである、ということです。
大慈大悲もまた理由の要らない、意味の迷路を彷徨わなくて好い(義なきを義とする)自然である。期せずして、奇しくも(くしくも)自身を脱せしめてくる。
これはその前の、「弥陀大悲の誓願を、深く信ぜん人は皆、ねても覚めても隔てなく、南無阿弥陀仏を称えるべし」を承けていますので、大慈大悲の誓願を賜る、ということになります。
四無量心や六通も対他性・共同性であって社会性であるということです。
大慈悲というダルマの菩提に備わる願心は、我々の関係性の重視たる共同性と友好です。
大慈大悲とか四無量心とか六神通は、利他、他者を重視するところに生ずる関係性中心の共同性、友好と友愛ですので、実生活としましては多くの視点から共同体とか共同性の在り方を求めて行きたい。
しかし、可否を言うなら、既述の通り、仏にても不可。
一例を挙げますなら、衛生観念は大事だし、健常者信仰は自然、自分たちの利害も利権も勢力維持も自然で大事だが、それは直ちに社会的差別には該当しない。ただし、差別化の一つである。
多様と進化自体が矛盾を産み、差別となる可能性さえ、あるんでしょう。
他者差別が何より根深いわけでしょうが、自分の世界が、おのずとあらゆる事象を取捨選択・差別化していくものでもありましょう。これが害い合う壁になっていく懸念が大きい。
身の事実、私の現実は、と申しますと、自身は既にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫来没して流転して出離の縁あること無き身、という機の深信が、ふつと(絶対に)たすかるということあるべからざる身たることが、先ず確認されているべきです。
ですが同時に、身の事実、私の現実の大きな一つたる大慈大悲の願心を開発・開被せしめ、頓悟させてくるはたらきが、ダルマと如来菩薩の御はたらきなんです。
それ故また願心と願心を賜った私らは、還る、世間道にも展開していく。
但し、親鸞さんの時代は夢告の頃。ダルマ、ブッダの神秘的なはたらきもゼロでは無いかも知れません。が、それを考慮に入れても、極めて事即理(ことわり)に適ったこと、と申せましょう。
なお、お浚えのところで述べるべきことですけど、真宗の本尊、阿弥陀仏は凡夫の私の処に、釈迦牟尼仏のお力添えで仏の方から来られた、観経の住立空中の本尊とも言われます。
自らを滅ぼし尽くして、とらわれなく自らと世界から解き放たれ、喜び合えて、尊び合えて認め合え、与え合うブッダの安楽世界から、この日々に還られて、驚いて起ち上がり、こちらに踏み出されたお姿にシンボライズされています。
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)といい、色・臭い・姿かたち無き法体が、人間に実現して法身=ブッダとなるわけですが、このことは同時に、成道された方は皆、還相回向されてその方便(浄土往生及び成仏の方法)になることを示されているように感じられます。
強弁に聞こえますか?まあ、方便として現れているに過ぎない的な理解が蔓延していることでしょうけど、私の受け止めでは、成道者が往生成道を勧めて実現させるのですから、こういう論理になるはずでは、ありませんか?
我が身は既にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこの方、流転輪廻し没して出離の縁あること無き身という機の深信からも、自制自戒からも、我々の仏国土往生や成仏を出来なくされた感を禁じ得ない親鸞様でした。
ですがその親鸞様でさえ、晩年にはとうとう、ポロンと、念仏者=信心の行者は如来等同、菩薩等同などと仰らざるを得なくなる。
凡夫が本願の正機であり、不思議だが、仏になるみ教えですから、当然のこと、と申せましょう。こうして凡夫もみな、くすんで輝かぬばかりであった身が、本願を賜って、輝く法身となるんです。凡夫が仏になるこそ不思議(蓮如さん)。
なお、
無礙光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり
って感じで、いたるところに法が遍満しているわけですけど、それとは別に、光明が様々なはたらきをする受け止めがおありだったわけで、密教的な素養のあらわれかも知れませんね。神童の誉れ高い師、法然聖人に負けず碩学でいらっしゃったから、いろんなところに学ばれた法相が化現してくるのかも。
この正像末の御和讃は、正法・像法・末法の三時観のなかで、いま、末法滅法時代になっている、この身と時代を悲嘆するもので、同時に、何らの期待を寄せ付けない時代と身にとってこそ、正法の時代として仏道が開かれる、かかる仏徳讃嘆からなっています。
少し抜粋してみますと、分かり易いかも知れません。
(4)
正像末の三時には
弥陀の本願ひろまれり
(6)
数万歳の有情も
果報やうやくおとろへて
二万歳にいたりては
五濁悪世の名をえたり
(9)
有情の邪見熾盛にて
叢林棘刺のごとくなり
(11)
末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし
D--
(12)
九十五種世をけがす
唯仏一道きよくます
菩提に出到してのみぞ
火宅の利益は自然なる
(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
(44)
十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなはぬほどはしりぬべし
このように時代と自己を認識され、このような自己と時代の中で同時に、
(15)
正法の時機とおもへども
底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし
発菩提心いかがせん
(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
と、ご自身を含めて、発菩提心、なんていう大それたテーマが吐露されておりまして、ここに、親鸞さん御自身が、既にして、抜き難く、聖道門の人たることが、垣間見えるわけです。
これはよく言われます、親鸞という名のりが、曇鸞菩薩に親しいという、また、世親菩薩と曇鸞菩薩の足跡を賜ったという、菩薩の名のりであるということがございますが、非常に菩薩道の実践が意識されている。
更には次に、大般涅槃(ニルバーナ)という、これまた大それたお言葉で、成道宗、成道門であることが言われています。末代末世、末法滅法時代の正法だ、ということです。
(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり
P--604
(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
D--
(24)
如来二種の回向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆゑ
憶念の心はたえぬなり
(25)
弥陀智願の回向の
信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆゑ
等正覚にいたるなり
(26)
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
P--605
(27)
念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし
(28)
真実信心うるゆゑに
すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり
(29)
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
(38)
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
P--607
願作仏心というのは、ブッダになるを願う、ほとけの世界を喜び求める心持のことです。
なお、「義なきを義とする(理由が要らない、意味の世界を彷徨う必要もない)自然」については、次の部分などで「不思議」が多用されている。
(47)
仏智不思議を信ずれば
正定聚にこそ住しけれ
化生のひとは智慧すぐれ
無上覚をぞさとりける
D--
(48)
不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまへり
信心の正因うることは
かたきがなかになほかたし
P--609
(51)
南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり
このあと、自戒自制の悲嘆懴悔が述べられます。
愚禿悲歎述懐
(94)
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(95)
外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋・邪偽おほきゆゑ
奸詐ももはし身にみてり(ももはし=たくさん)
D--
(96)
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
(97)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(98)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
P--618
(99)
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
釈親鸞これを書く。
非常に強く有情利益が願われているわけですが、このあと更に、災害と疫癘時代の、善光寺の一光三尊仏が「なにわの浦」に招来されたことが述べられます。
また、以前、仏について、「浮屠」とか、漢訳に於ける外国思想への差別的な表現ということでいくつか挙げましたが、「ブッダ」が「ほとけ」に訛ったと思います。
親鸞様はまた違うお受け止めで、「ほとほりけ」(ほとほる=疫病等で熱がある)が「ほとけ」に転じたとされる、もう一つの由来が言われます。
まあ、いずれにしても、排斥的な表現と申せましょう。
これも一部だけ引きます。
#2善光寺讃
(110)
善光寺の如来の
われらをあはれみましまして
なにはのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて
(111)
そのときほとほりけとまうしける
疫癘あるいはこのゆゑと
守屋がたぐひはみなともに
ほとほりけとぞまうしける
D--
(112)
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋がまうすゆゑ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
(113)
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけとまうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
(114)
弓削の守屋の大連
邪見きはまりなきゆゑに
よろづのものをすすめんと
やすくほとけとまうしけり
P--621
親鸞八十八歳御筆
そして巻末に、自然法爾章を収めます。
要するに、釈迦授記(往生成道の予言)の質を含めつつ、大慈大悲の人、としての浄土の往生人がある。
有情利益する人。それが如来、菩薩である、と。
そして我々は皆、発菩提心も回心も怪しいわけですが、雑行ばかりにして、聖道自力ばかりである、いずれもいずれも、成道には適わないものである、と。
また、『観無量寿経』にふれましたが、以前、シリーズ「人類の知的遺産」18『善導』(藤田宏達先生)を拝読いたしました折り、道綽・善導両師は、たとえ偽経でも仏意・願心を見事に見抜かれ、依用されていたことが分りました。
また、観経自体も中国や西域撰述の偽経かも知れない、といいましたが、導師自ら自著に対して経教の如く扱えと言われたことも、分ったわけです。
悪く言うと恣意的だが、もともと大乗経典類自体がシャカ直説の初期経典類とは違うことを鑑みれば、何らの問題をみないものと受け止めて居ります。
すると逆に、いわゆる経証(経に言うとおりなら証明になる)自体も、特に必要では無いように、思う次第です。既に述べました通り。
なお、大乗経典に繋がる質を初期経典は含むわけですが、仏道に小乗というものは存在せず、上座部も部派教団も、初期経典も、全て大乗である。予て述べた通りです。
ただ、私らにしてみますと、分けても導師と観経が、人類全員「唯凡観」で以って、凡夫の即生、成道を明かされた稀有の質となっている、と受け止めます。
之を親鸞様はお「正信偈」で「善導独明仏正意」と讃嘆して戴かれました。独明、なんです。導師独りが明かされた、と。
内心外道を帰敬せり
外儀は仏教だが、内心は外道に頭を下げている。
これは我々全員、内心外道なんです。聖人も時の支配的大教団を詰るように語用されるが、自身を誡めていく言葉と受け止められるべきなんです。
まあ、そうしたことでは困る、問題ではあるとしましても、上座部・部派仏教も聖道門も、門徒、在家仏教の在り方も、いずれもが世間と衆生に要請されたものでしょう。
世間的なものを脱そうとする志向も、大事ということです。一つはそういうニーズが大きい。
また、超俗の世界には入り難い人も多いから、世間の家に在りながらたすかっていく、そうした質も重要です。
相和して、満遍なく梵網ですくいとっていくんです。誰もがたすかっていく。
大経にも、上首と菩薩と共々に名を挙げられていく。
ただ、順番は上首が先ですから、シャカムニの尊重と上席の出家僧の仏弟子の尊重があります。
なかなか微妙な辺りです。
聖人は、釈迦の教法ましませど・・・内心外道・・・ということで、明らかに全否定されている。まあ今や、聖道門の先生方も鬘(かつら)もつけずに飲みに行かれるんで、外儀すら怪しいわけですけど・・・。
身の事実からいたしますなら、仏道を修めるには念仏=信心=本願為本しかない、ということで、外儀は関わって来ないんです。
維摩居士が上席の仏弟子をやりこめることも、何ら不思議ではない。
日々の在家らいふ
日々の在家ライフってのは、『真宗の生活』とか、あんな堅苦しい内容、整ったキレイごとではないわけで、私に、邪に、生きる、縦(ほしいまま)に生きようとする。
単にいのちの歴史に生まれたに過ぎない者による、私のいのちの私物化、です。まあ、そう作られてるから自然でもあり、権利でもあるんでしょうけど・・・。
無自性空で自身に見えて来る無執着と大慈大悲の正覚とか回心ご信心からすれば、生も死も生きて来るんでしょうけど、そんなえーもんとちゃ~う。エゴイズム、ミーイズム、グチと罵倒。
まあ、同時にお釈迦さんの徹底した命運の世界の脱出からしますと、それもまた囚われの世界ではありますが、狭い執着ではない、自然の私の求めもあるわけで、このこともまた露わになり、孕まれていることが明瞭に意識され、育まれていくんでしょう。
わざわざ面倒な考えや行いや関係を招くよりも、ずっと好いんだ、と。
結論はスッキリしていて、エゴイズムやミーイズムはあかん、オンリーワンもメリケンファーストもアカン、と。
しかし、俺が俺が・・・も残るだろうし、エゴイズムもミーイズムも残る。どうしたらいいかなあ、ということで、見据え続けるわけです。
見据えることは出来るし、自制されたり緩和されていくことは出来る。
ただこれも、自制といえば聞こえは好いが、要するに鎮めになったり、辛抱すべきでないことを、言うべきことを抑圧する面があり、吟味が要るんです。
教相に真向かう
仏道は無自性空の無執着を基礎としつつ、無差別無条件の慈しみを要旨とする。
共同体。ア・ミタも、大慈大悲も四無量心も六通も全て、人間を尊重し慈しむ対他性である。
悲は人間の惨状と、真宗的に言うなら、それを脱し得ないいのちの共有する悲惨への、慈しむが故の深い悲しみである。同悲し共苦し共感する。
実際の共同体では難しいかも知れないが、既に明示され、我々に次々と地湧し、内側から決起して来るものであるから、仏道の継承についてはあまり心配していないわけです。
ただ、教相と教相判釈については非常に気になるので、無条件無差別の端的ないのちの尊重、及び、願に自分が死んで、改めて願に生きる者となる旨、これも既述したわけです。
名号不思議の信心
教団ということがあり、根本的な理解、まあ、受け止めの点で、腑に落ちない点があって、その中には実はどなたも長く感じて来られたものも、あると思う。いろいろ間違っているわけであろうけれども、教相や教判の根源の受け止めがヤバいとなると、これは改革が必要になる。
現世改革という大きなチェンジが近代に於いて、第二次大戦後特に問われたことから、バチカンその他により実践されたことなど、その最たるものといえよう。
この、宗教が理想としてきた世界、人間に見い出されながら人間を超えたものとの出会いなどと、現実社会及び現実社会への態度・対応ということを、どう受け止めるべきか、かなり問われたものである。
そうしたことも含めて、たとえば真宗であれば名号を賜る、その名号のいわれ、内容を再確認することだけでも、かなりの変化がもたらされると思う。
ダルマ=ブッダの願いであり、機法一体であり、仏・往生人と、私・私たちであり、本願成就の信心の表現であり、サンガであり、仏の世界であり、仏と法の成就である。
凡愚の機の深信があるから、驕りも過信も肯定も無い。底下凡愚悪人という自己の姿が明瞭である。
同時に、既にして出遇い、既にして、成道を賜った樹心仏地である。
ここに、信に死んで願に生きよという使命を賜っていく。往相は還相としてはたらく。
願心とその開く世界が、好き世界であり、好き人生であるから、私に選ばれ、心酔されていくのである。
逸れてゆき、漏れてゆく身に過ぎないけれども、同時に、かかる自身が何ら妨げにならず、目指す世界をハッキリ賜り、知り得、目の当たりにした者には、チェンジと新世界がハッキリして来るわけです。
名号は、蓮如さんは機法一体と仰られたが、大慈大悲にして因縁起生滅の無自性空義である真如法性たるアミタというダルマに帰命する姿です。
だから、名号自体が信心を意味し、表現している。
それまで中心であって拠られて来た自分なる者が、万民済度のアミタなるダルマにふれ、アタマが下がった姿。
ということは、そこで自分が棄てられているんです。
思い議ることなく自然に本当に安堵されて安楽される世界だから、自分が棄てられて寄る辺になる根源に拠る、自分を超えた世界に命が帰するということが成立していく。法の深信。
同時に「本来願われていない関係性」に終始して来たことへの気づきから、迷妄の世界たる世間についても、棄国捐王されていき、新たに仏国土建立ということが出て来る。機の深信。
南無(漢訳意訳では帰命)と法性により構成された六字・九字・十字の名号は、漏れなく摂取不捨する本願成就、信心成就の姿、と申せましょう。
我々の自然性の一つである本願に頷いた信心と、自分が滅ぼし尽くされたことと、本願を賜った者の使命を暗示するものでしょう。
アミタの意味
ア・ミタのアは、限定や限界の否定。無限無量の、広大無辺済度の世界を意味しているんです。
無量寿、というよりも無量光。済度の光で世界と我々を照らす。
すなわち、仏道の全てがアミタの名乗りによって既にして示されてある。
そしてこれに南無(帰命。空無自性と大慈大悲とその行いに頷いた姿)という二文字が成立して我々が自己の中心、根拠として賜っていくところに、法の成就、サンガの成立があり、仏国土が開かれていく。
・・・まあ、仏国土については開かれていくけれども、なお、それとしては十分には自らを表現できないかも知れませんから、願われていく、開かれることが暗示されている、という理解でもやむを得ないのかも、知れませんね。
ご存じの通り、南無阿弥陀仏は
帰命尽十方無碍光如来
南無不可思議光如来
とも言われていますね。無差別無条件に済度するから、なんです。済度というのは、悪人が悪が妨げにならずにブッダの世界に生まれる。悪人のまま、では無いんですけど、善悪の凡夫を問わない。
ただし、示される道は、好き世界へ、ということですから、まあ、善であり正義であり、対して、それに背いていくのが私らだから、批判され否定され叱られ続けるけれども、かかる自身を痛み、否定するところに、済度がある。これが願心に頷き回心信心を賜った、二種深信の姿です。
アミタの光
この、無量光如来の光について、親鸞さんの讃嘆がある。ほとけの世界たる仏国土、ブッダ・ワールドの性質に言及されたことになります。あれほど凡夫の即生に疑問せられながら、凡愚即生疑いなし、とも・・・。
まあ、曇鸞さんの理解では光は智慧光ですが、光というよりも、色んな名で、アミタとその世界が理解されていく。
三帖和讃のはじめ、浄土和讃の最初、巻頭和讃のあとに曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈が引かれていて、そのあと、和讃が造られて行きます。
少し、観て参りたいと存じますけど、まあ、狭い料簡で、不勉強のままで、ふれますので、先学諸賢に学ばれることをおススメいたします。祖師方と先学の煩瑣な解釈の出番の部分、でもあるんです。この部分に限りませんが、御本書の講義はまあ、面倒なお話しが続いて、本願も御信心もどこへやら、という印象しか残りません。
ポイントは、もちろん、親鸞さんの視点からのブッダの世界とはどのようなものか、という処にありますけれども、機の側に重点があるか、法の側か、如来菩薩の道を賜って生きていく攻究上、関心が湧くほか、親鸞さんの視点自体に迫ることともなりましょう。
また、阿弥陀と名付け奉る、とも、仰られた。パブリックでグローバルな限りなき灼熱の慈しみの対人性が溢れ出て、仏自ら、ダルマ自ら名のられたのではないか、誰が名付けたのか?
親鸞さんでもあるけれども、祖師方全部が名付けられたのでしょうね、やはり。万民済度のブッダのダルマをアミタと名付け、いただいてこられた。
名づける、号けるというのは、このようなこれまでの宿因宿縁の歴史的経緯、いわれで、こう言われている、というご説明・解釈でもありますし、定義、とも言えなくはない。
三帖和讃のはじめ、浄土和讃の最初、巻頭和讃のあとに曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈が引かれていて、そのあと、讃阿弥陀仏偈の和讃が造られて行きます。このあと、三部経の和讃。その中に、阿弥陀経の部分で出ています。これは七高僧の中では、善導さんの往生礼讃偈にあるようです。
またいはく(礼讃 六六二)、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。{以上}(教行信証行巻)
【71】 しかれば、真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを
歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し
懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信
P--187
に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつる
と。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品
一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(教行信証行巻)
身心滅却
ともあれ、お座りいうのんも念仏も、自分を問うていく、自分を忘れるとか、無くすとか、そういう表現もありますが、法に出遇って自分が死ぬことで願心に生きる自分が生かされていく。
そういうところがあるん違うかなあ、と。
まあ、それぞれの生活の中で、意味薄なんか、自分を生かして、自我から出発してアレコレ取り組むほか無い、という生活風が、流れになっています。
そうじゃないと、危ない、と。とても判断なんか出来なかったり、といって判断を委ねることも出来ないこともあれど、さりとて、基準、根拠、中心が分からないか、ハッキリしていない。
ちなみに、いっぺん死んでも、自我や自分や人生が治る、というのとも違う。
治らんことが一層ハッキリして来るに過ぎないわけで、なかなか説明し難いんです。
凡夫に戻らんと危ない、還るなんてことは出来ん、ってのと、似通っているんですかね。
信に死して願に生きよと言われたけれども、俺が俺が、があるうちはダメで、本当の自由の一つが、そういう自分を離れて、あるんじゃないかと思う。
仏菩薩というも、人間関係そのもの、温かな対他性そのもの、グローバルでパブリック、インターナショナル。自分の世界じゃない。もちろん自分が居るけれども、もう自分じゃないし、自分だけでもない。
共通している、人類的自分。
行者の姿勢
少し、願心の受領者、信心の行者の在り方についてもそうだが、自分の中で積極的で前進しようとする理解と表現が優先されがちなところが、気にはなる。
もっと落ち着いて、じっくりと構える時間や表現もあるからだし、皆が皆、そんなに積極的なわけでは無い。
受動的もあれば、消極性も、静かな時間もまた、人生表現なのであろう。
だが、凡夫ながら時に道が見えるのである。鳥瞰的なパースペクティヴがスケルトン状に開けてくるとなると、これは、ただ引っ込み思案でも居られないし、わざわざ迂回することも困難。
願心とは、観であり、人間自然という絶対的不可能の中で、好き世界への可能性に取り組むこと。
観はさまざまを披いていく。時には自律や他律の戒や律ももたらすものであろうけれども、やはり、自律が望ましいであろうし、自ら拘泥され得るほど立派なものは、底下凡愚悪人には滅多に現れないから、油断も安心も出来ない。
むしろ、与え合うが如き素晴らしく輝き合い、輝かせ合う関係の成就を目の当たりにするなら、実の如く目の当たりに仏に会うなら、その時こそ、自らの曠劫来底下凡愚悪人たることを想い起こすべきかも知れない。
好き関係を望み続ける我々であるが、本当に素晴らしい仲間関係のとき、むしろ自身とこの世の悲惨を想起して自制し自戒すべきように、感じる。
回心
回心ということについてもやはり、自己を脱する。
向上心、状況打開、イラ立ちや不満からの出発、願いという自然が、党やイズムや国家への回心めいたものを導くけども、いずれも、現状を脱し、また、自身を脱しようとするものでもある。
そこには二種深信に同じく、理念への帰依と、それに逸れる身への叱咤激励や痛みや悲しみ、頑張りなどが見受けられよう。
ただ、それもまた自我となって拘泥されてゆく、かぶれてゆくことにもなろう。
また、二種深信の誤った理解たる、理念と自己との乖離の当然視と受容、居直り、現状肯定や努力放棄、王法と仏法・仏道と世間といった二元論などもある。
回心の様態については、自己と世間を脱して変身・チェンジしていくということがあるんです。
勧善抑止悪という観
無量寿経五悪段に、勧善のくだりがあります。
「なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。
心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。
ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。
ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏国土にして善をなすこと千歳するに勝れたり。
ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなすものは多く悪をなすものは少なし。福徳自然にして造悪の地なければなり。
ただこのあひだ(身を置く世界)のみ悪多くして、自然なることあることなし。
勤苦して欲を求め、うたたあひ欺紿し、心労し形困しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務して、いまだかつて寧息せず。
われなんぢら天・人の類を哀れみて、ねんごろに誨喩し、教へて善を修せしむ。器に随ひて開導し、経法を授与するに承用せざることなし。意の所願にありてみな道を得しむ。仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災癘起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし。〔人民〕徳を崇め仁を興し、つとめて礼譲を修す」と。」
勧善というのは、仏道と仏国土のお勧めということです。
ちなみに、蓮如さんが宿善(過去、善きことに出遇っている)とか無宿善と仰られる場合の「善」も、本願念仏の回心信心など、仏道を生きること、です。
しかし、仏教が観ずる浄仏土、仏国土は、現実であり、事実なのか。現実社会での生活実践の課題となるのか。ただのイマジネイションや観念や実現しない偏向した理想世界なのか。はたまた、作り話や死んでからの話なのか。無三悪道も死後なのか。
また、人間というものがどのように観られているか、というより、受け止められているか。
霞を食って生きる仙人でも無ければ、超俗の聖人君子でも無く、老病死と苦闘しながら実生活を進める全くの在家の生涯でありますから、いろいろお勧めもみ教えも大事なことは分るけれども、せめて精神面や考え方の観念的な点だけでも、私にとって重要な「何か」が無いことには、とてもチョイスすることは出来ません。
理想主義
イデアや観念
イマジネイション
作り話
死後・・・等々としての「世界」
⇕
生物とか消費者とか労働者、脳や心理など、科学や人文学など諸学が見出したり規定したり定義する一つ一つの客観事実
私の事実である価値
身の事実
肌感覚
慈しみと人類的苦悩たる共苦同悲共感
愛着と束縛と個的苦悩
四法印・四諦・八正道・十二因縁や本願念仏往生
因縁起生滅の輪廻転生空過流転
変化し続ける、アートマン=我=本性がない空無自性
愛別離苦、対象喪失、あはれといふもなかなか疎かなり
自然で自分の、また相互の自他双方による、老いる者・病に倒れる者・死ぬ者など四苦、八苦、求不得苦や怨憎会苦、友好や与え合い・・・等々という「事実」としての世界
いずれもブッダの世界であって重要であるが、どちらかというと仏教は、事実あるがままの世界を語るに過ぎない。
まあ、凡夫でありますから、また教相にも怪しいものもございましょうから、無理するべきではありませんが、少なくとも志願、勧め続けるということがあるわけです。
仏教は、姿勢としては自己のうちに原因を見い出したり、自己の改革に取り組む傾向が強い。比較的内証内観の傾向が強いですし、為に分り難いこともあるでしょう。
更には、身体・心や煩悩などのカーマの流転輪廻転生による空過の世界、命運の世界を脱する傾向が強いわけですから、愈々、生存の為に勝敗の為に激闘する暮らしからは、さあ、ご縁が薄い。
死後とも関連しつつ、日本でも菅原道真公や徳川家康公は死後、神々になってますけど、エジプトやインドや中国、ギリシャや北欧でも、もと神官や高僧などのうち高位の人は、時には自らが神々を司り、神々になったり、神々よりも偉くなって言い負かしたりしたんじゃないか・・・と思いますが、人生の生活の延長としての神々の世界ということも、あるわけですけど、そういうのとも違ってる。
いつの間にか習俗的に神々みたいに祀られていることはあるけど、恂に以って、むしろ生活を問い、自己を問う方向なんでしょう。
親鸞さんによる曇鸞さん
曇鸞大師讃嘆の御和讃、「世俗の君子「幸臨」し・・・」の意味は、仏道が我々在家の王法社会、俗人、世俗に伝わることを意味している。俗物、俗仏・凡仏が、ある。
こうした巨大な意味を見落としてはならない。
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある
(24)
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
(25)
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
P--583
(26)
魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおはしける
やうやくをはりにのぞみては
汾州にうつりたまひにき
(27)
魏の天子はたふとみて
神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば
鸞公巌とぞなづけたる
天親(世親)と曇鸞から、親鸞の名乗りをされた、という理解があり、そうだろうと思う。
また、鸞に親しむ、という名乗りになっていることから、ことに曇鸞を重視され私淑して居られたものと受け止めるし、曇鸞さんの讃阿弥陀仏偈などを重用されている、とも思われる。
御和讃の中でも、史料には詳しくないが、曇鸞讃の分量は多く、お正信偈でも龍樹・天親と同じ12行の分量が充てられている。
他を軽視するつもりは無いが、曇鸞讃は内容面からみても極めて重要な志向が読み取れる。
ちなみに、善導さんはそうでもないのかも知れないが、曇鸞さんには龍樹への言及もあり、先生は龍樹門下と断定されている。
親鸞さんの龍樹重視は既述の通りである。
同時に、論註を著わされたことから天親さんにも特に近く、親鸞さんは曇鸞さんを菩薩と位置づけされている。
また、曇鸞さんも魏や梁の武帝など天子との関係が色濃く、親鸞さんも天子聖徳皇讃もわざわざ大量に制作されており、国宝本には無いが、高僧讃巻末には聖徳太子が載る。
これは太子が三経義疏を制作した伝説とか、日本に大乗仏教と大乗経典を持ち込んだこともある。
同時に、太子以前からだが、新羅や百済から仏像や仏教や僧侶が献じられたり派遣され、天皇が礼拝の可否を臣下に尋ねたり、守屋さん以前にも物部氏により仏像などが焼き払われていたり、占いで決めたり、何度もせめぎ合いがあった時代のシンボル、それが太子でもある。
故に、同時に、政権との関りが、宗教弾圧を受けた親鸞さんには特に重視せられたフシも、感じられましょう。
更には、感覚に過ぎないが、天との関係も重視されている感じがする。魏の天子はたふとみて、神鸞とこそ号せしか、というくだりもございますが、菩薩ということと同時に、神格化もある。
どのみち弾圧と迫害の為、親鸞さんに限らず吉水の教団では、ずっと怒りがのこされ、政治(天子)と祭祀(天)ということが、殊に、終生、意識されたと思う。
次に、史料を知らないが、現在公刊されている詠み順からすると、最初に、菩提流支のこれこそ長生不死という勧めにより、観経一部を授かり、仏法三蔵の修学研鑽の為に長生不死が必要という願いで用いてきた仙経を焼き捨てたという事績にちなんで、述べられる。
無量寿の長生不死、ということと、回心、ということが思われるが、浄土一門に帰せられた、という理解で好いであろう。
しかし、学ぶに長大な時間を要する、という点は重要で、多様と迷いを意味し、遍歴を意味する。
新教導入に限らず、既に百花繚乱、百家争鳴となった時代もまた、帰するところを知らず、踏み切り難し、ということであろう。我々の姿そのままである。
十方仏国が浄土なのに、あなたはどうして西にあるのか、何によりてか西にある。(如何なる理由で西に生まれる)という解釈ですが、東魏の天子が不審に思いそう尋ねると、
我が身は智慧浅くして、未だに菩薩の地位に入れませんから(十地の階梯の初地〈初歓喜地〉の菩薩でさえ無い。不退の位にあらず。迷いの存在のまま、ということ)、十方仏国には些末な私の念力など到底及ばない、届かないのであります。
このように応えられます。道は狭く険しく、撥ね返されてしまうのである、と。ここに親鸞さんは続けられて、
一切僧俗の帰すべきところは、実はどこにも、全く、絶対に無いのです。こうした阿弥陀仏の安楽国への勧帰のこころざしは、ようやく、鸞師ひとりが初めて定められた。有り難く尊ばしいことである。
と、浄土一門以外に帰すべきところはどこにも無いことを説法されました。
以前述べました通り、菩薩で無くともいい、菩薩で無くても凡夫が往けるんです。
但し、往った、ということで、凡夫が菩薩になり仏になるんです。
講讃復演
智慧浅く、凡夫、悪人、と。これ自体、在るがままの如来菩薩の観であり、倫理性を超えた深い倫理性による自覚である。
そして、かかる身にこそ、ダルマが既に曠劫来届けられていて、本願の念仏(願心に頷くこと)ひとつにより、易く私の本願と信心が開発されていく。
悪人であって、菩薩で無い、迷ってきた私が、如来菩薩の世界を賜って往生せしめられ、仏になるんです。
さらに、というのは下に否定を伴い、全く、絶対に、の意。
(37)
論主(世親)の一心ととけるをば
曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが
他力の信とのべたまふ
P--585
(38)
尽十方の無礙光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
(39)
無礙光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
(40)
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
本願回心をたまわった悪人、へと生まれる。悪人のままで、自身の悪しきを顧みずに振り捨てて、往くんです。
(31)
天親菩薩のみことをも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし
P--584
(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ
(33)
いつつの不思議(衆生多少・業力・龍力・禅定力・仏法力)をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘誓(本願)になづけたり
(34)
弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
D--
(35)
往相の回向ととくことは
弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば
生死すなはち涅槃なり
(36)
還相の回向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなはち諸有に回入して
普賢の徳(大慈大悲)を修するなり
還相回向は、教化地に至ること。あらゆる場で還相回向の仏菩薩として現れ、仏を手伝うはたらき、教が生活を生かすはたらきを修め続ける。自ずと地上に浄土の益が現れる。
弥陀の回向成就して往相・還相の回向によりてこそ、他力広大威徳の心行ともに得させる、ということですけれども、回向成就。
如来の回向が衆生に、私に成就するんです。だから他力の不思議。
(41)
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり
(42)
尽十方無礙光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしほに一味なり
(43)
安楽仏国に生ずるは
畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ
諸仏浄土をすすめけり
P--586
(44)
諸仏三業(身口意)荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ
(45)
安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまふ
(46)
如来清浄本願の
無生の生なりければ
本則三三の品なれど
一二もかはることぞなき(衆生九種の違いも、浄土では寸分の違いも無い)
D--
(47)
無礙光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまふ
(48)
不如実修行といへること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆゑに
(49)
二者信心一ならず
決定なきゆゑなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ(淳・一・不二・相承之信)
P--587
(50)
三信(淳心・一心・相続心)展転相成す
行者こころをとどむべし
信心あつからざるゆゑに
決定の信なかりけり
(51)
決定の信なきゆゑに
念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ
決定の信をえざるなり
(52)
決定の信をえざるゆゑ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり(天親論主の信心一心)
D--
(53)
万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり
(54)
本師曇鸞大師をば
梁の天子蕭王は
おはせしかたにつねにむき
鸞菩薩とぞ礼しける
以上曇鸞和尚
いくつか抜き書きいたしましたけれども、幣派公式見解では先ごろ曇鸞は菩薩では無い、龍樹・世親までが菩薩、ということに断定されました。
菩薩なのか、で無いのか、どちらだと思われますか?親鸞さんは、ご和讃では武帝の謂いを引かれ、また、龍樹天親おはせども、曇鸞大師なかりせば、と、暗に菩薩であると言われているわけですが・・・。
まあこれは両両度も、菩薩なのかどうか。機からみれば、凡夫。
しかし、その凡夫が仏になるこそ不思議。我が身は智慧浅くして、いまだ地位に入らざれば、ということで阿弥陀仏の本願の念仏において往生されて菩薩であることになります。
生物の生存の在り方は害自害他、自障障他の悪を含み、凡庸以外ではありませんので、人間もまた凡夫以外の仏菩薩としての生存はあり得ません。ただ、人間の場合は、自らを見据えることは出来る。
そのことで自身を痛み、緩和し得る分野もあるわけです。
殊にはたらきとして、凡夫往生を定められたことが、まさに教を弘めて衆生済度していく菩薩ということに、受け止められていく。還相回向の菩薩そのもの。
シャカムニと親鸞の疑問点
再び迷いの生存に還らない
人民の為のはずの宗教、勝敗、差別化、社、連、党、国、地位、業績、生存、死、無、見解と識別、悲惨、懊悩、孤独、集合、変化と無変化、存在する、また、しない、あらゆるもの。
同時に全てが、人民の為になっていない面があるのでは、ありませんか。
それ故、それらが何一つとして碍げることがない自由を得、思いや感覚や気分のちっぽけさからも、受け止め難い生存や生物や宇宙自然の巨大で深遠な複雑さからも、解き放たれていくことも、願われました。
どうでしょうか?
呪縛となっているものの多くは皆、もと、人民の為にもあり、それをめざしてもいた。
差別化は自然の要請でありつつ、人為的社会的なそれは我々の歪みに起因するものでもあり、そこに鋭くつけ込んで来るものであるところに、厄介さがある。
忌避するものは何か?正統で普通の存在として定位され、受容されないものとは、何か?これは、惹起されるものとは、何か?こう自問するとき、明瞭となる。
差別しなくても満足される世界が要る、ということである。差別しなくてもいい、資格が無くても好い、評価があり、認められ、尊ばれる世界が、要るんです。
世界の創造です。改革、開放です。自由で解き放たれた友好関係の成立が重要。
最後の生存、最後の身体、迷いの生存。再び生まれない。インド的な聖者の到達点、虚空にして無、みたいなものを尊ぶ姿勢がある。
これは無自性空義から因縁起生滅における六道輪廻転生の命運の世界を厭い、また、無執着による、自由と解放であり、権力や政治や国家や多くの束縛を厭うのと同じであるが、生死と同視されると、本旨を損ない、早く死んだ方が好いんじゃないの、ということになる。
まあ、完全な解放は存命中にはあり得ないのだから、無いものねだりになるから、再びこの生存に還らない、という徹底性は分るが、明らかな行き過ぎだろう、ということである。
いずれにせよ、インド的な虚空、形無きもの、無に近い世界に進んでいく、聖者の年輪の如きものが、漂っている。
また、もうひとつインド的な在り方なんでしょうか、朝に教えを聞かば夕に死すとも可なり、と、真理実相に出遇えたならそれでいいんだ的な諦観がある。
いずれにしても初期仏教は知的面が強く、慈悲以上に真理探究する聖者の質を感じるのである。
にもかかわらず、限界状況と苦悩という事実の世界から、決別を主体化した功績はあるであろう。客観的には、どっちみち決別あるのみ、死や無が、個人としては、時には種としても、あるだけ、なのである。
ただ、それでも生きる意義、喜び、に於いて、やや薄い印象があるということです。
そしてまた、我々の在るがままの願いとしての大慈大悲四無量心等ではあるが、それ故須らく許されざる者であって、あらゆる法と宗教と思想と制度によっても同じく、裁きばかりになりがち。
無執着の思想はまた、人間尊重に気づくことを得て、囚われなく我々の依拠するものぜんぶから自由に、万民を受容し、自分の思いやスタンスを相対化するはたらきとも、なりうるわけです。
親鸞さんにも、時代と思想の枷がある。宗教的迫害と流罪時代ということからすれば、逡巡や躊躇も分るが。
菩提心、衆生利益の願心を本願に賜り、その願心に生まれながら、念仏信頼と幅広い理解の受容があるけれども、機の深信偏重で、いやいや往生なんぞとてもとても、ということがあり、仏菩薩や浄土の絶対化と共に、往けない世界にしたと感じます。
如来等同、弥勒等同、菩薩等同と仰り、かなり近づきながら、確信を持たれながら、人間に於ける、凡夫に於けるそのままの現世での成仏や往生については、とうとう否定され続けられたものと言えよう。
これはブッダ観と凡夫観に関係している。
蓮如さんも同様である。凡夫の仏になるこそ不思議、と言いながら、全てが死後に丸投げされているに過ぎない印象を憶える。
また、やはり機の深信偏重で、すくいということが、たすけることが、娑婆軽視になっている。娑婆えの凡夫庶民の暮らしについては、多分に見捨てられている。娑婆しか無いし煩悩しかない。だから煩悩即涅槃と仰りながら、である。
やはり世間的な解放、物質的な衣食住や生命ということも、尊いわけであるが、極めて薄いと言えよう。
疑謗縁信順因でこうした矛盾を我々は聞法の機縁とすべき。
ところでスッタニパータなどの慈悲の章は、やはりインド的なそれ、なのであろうか。
仏教には輪廻転生観と相まって、動物に身を捧げるなどの利他業の前生譚(ジャータカ)もある。
私は知らないが、バラモン教やヒンドゥー教で慈や悲についてのヴェーダ、ウパニシャッドその他典拠典籍とか、その定義について、先ず探る必要があることは言うまでもない。
愛情とか愛着、愛執など、さまざまに定義されるので、執着、識別選別、束縛とも取れることがあるし、しかし、情愛は自然なものでもあり、関心であり、無関心には慈も悲も無い。
同じように大事にしつつ、では、束縛するものと、解放するものとの違いは何か、という問いも生まれよう。
変化、因縁起生滅の流転輪廻、空無自性など、飛躍知見による発見と独創がシャカムニにはあるけれども、当代のイデオローグや伝承されて来た諸思想諸文化の中に萌芽態としてあったものが、仏教の中で質を変えて運用されていくことになった、という事態も生じたであろう。
まあ、主要な関心は、世界の諸宗教・諸思想の共通点として、大慈大悲という未来を拓いていく重要なモチーフがある、ということである。
人々を喜ぶ、共なる世界であり、同時にその共が友で在る世界、と翻訳できよう。
唯一、人類共通の憲章理念に出来るもの、人を喜び、害わず、尊ぶことを理念とする、ということである。
これは如来菩薩の本願ということが自己と人類の為になる救済、解放として表現される。
就中それを開いた48「別願」の第一第二に集中的に現れている無三悪趣の願は重要で、本セミナリオでは、尊び合えて認め合える、真の意味で大事にし合える世界の実現、を意味するものと受け止めて参ったわけです。
まあ厄介なのは直訳なのかどうか、流転輪廻観・死生観と申しますか死後観が混入してくるのがまたインド的、否、世界的ですから、漢訳異訳でも三悪道に対して禽獣・ねんどうの類、という訳が見られるけれども、趣旨からすると、大事にし合えない生まれ、と受け止める方が好いわけです。
ともあれ、要点をみますなら、人間を互いに喜べる、仲良き友になれる、尊び合えていく世界がめざされている。
翻って機の深信。我が身は遠く届かず。
ではどうするのか?
本願に生きるほか無いわけで、本願は本願、私の日常は私の日常、という在り方は、信心念仏の行者ではない。非常に多い在り方ですけど。
どうしても、何があろうと、我が身の悪きも妨げも顧みず、この道を往け、と。
志願や尊し。もちろん誰一人届かぬ底下凡愚悪人のままなれども、努めるものを願生者といただき摂取する、共に往生をめざさん、それが、如来菩薩の招喚のこえ、南無阿弥陀仏なんです。
言語を含めてほとんど知らない私には困難なことですけど、述べましたように、古代インド文化のパラダイムで、バラモン教・ヴェーダ・ウパニシャッドその他のコンテキストに迫ることから、シャカムニの在り方を求め直す。これはインディアン・カルチャーのパラダイムに於けるシャカムニであり、シャカムニ像をより包括的にするものと予想しています。
そして、分岐、分離分裂していった側面と、融合していった側面とは、どうか。矛盾していく側面と同一に近い面は何か。類似したジャイナ教とも関連しつつ、仏教や宗教以外の、例えば社会論や社会体制、世界認識、社会意識などの学術分野からの視点からも、さらに深い見識があるかも知れません。
こうしたこともテーマとなって来る。
もう一つの、人間観を窮める中での共同体論という困難な課題と共に、見直されるべきテーマではないかと思うんです。
時々刻々と質を深め続けている人間観にかかわる重要な研究テーマの一つと思います。
大慈大悲も六通も四無量心も人間関係、対他性ということに於いて成立している。
先ずは開祖が、一体、シャカムニがどういう人間観だったのか、当たり前で常識的に分かっているはずだと思われているでしょうけど、見直しておくことが重要なんです。
人間観なんぞが、どうして大事かと申しますと、日常生活の全部に関係している。
経済。仕事と生活、労働、消費と生産。
人間関係、私の好きな仲間・親友にポン友たち、恋人たち。
どうみているのか。
至るところで人民の為に、といっても、何が人間なのか、ハッキリしないことには、為になることになって行かん。為にならんことばかりやっている。
例えば、ちょっと根源的且つ客観科学的に過ぎるけれども、最大公約数的には、死後世界はともあれ、そして主体がどのように受け止めたり見直していくのかという問題が保留されるものの、死すべき(この「べき」は「であろう」の意)ものである、という人間観がある。
シャカムニの場合、必ずシャットダウンしてしまうような人間には拠れん、寄る辺にならん、と仰られるが、そう仰られた主体はといえば、求め願う主体である。不死を得る主体、なんです。
生きる、このように換言して構わないと受け止めています。
もう一つ申しますと、元に戻りますが、大慈大悲の私、人を喜び友たらんとする私も、確かに、あるんでしょう。現実の人間観です。
こちらの方は客観科学的に観察されるとはいえ、内なる事実なんでして、我が身の事実、しかも、価値ある事実、信を置くべきように感じる事実、でしょう。
するとこれは、大事にされるべき存在である、と。万民がそう願っとる、と。それで、たとえば経済政策はこれでいいか、となる。究極の精神的支柱は既に在り、大事なことだけれども。
また同時に、何事も、一事でも頑張れ、と、だが、あんまり無理すんな、と。そう大したもんにならんのが普通だし、なっても一時のこと、総体としての人生の諸要素の中で道を見失わずに、頑張るが肝要、とも、感じたりすることだって、あるわけです。
ただ、自我も大事、我を通すことも大事、争いも時には大事、しかも、正邪に関わらず辞めれない、これも事実ですが、よく吟味されるべき事実でしょう。
みんなの反対を押し切って防潮堤の高さを上げたことで、津波を防げて、みんながたすかった。これは結果オーライですけど、むしろ稀なのでは?
また、クーデターも革命も戦乱も望ましくない、とんでもない独裁や悪政で改善しなければならない地域もあるとしても、平和的に、が望ましいわけです。
民主制が無い所、長く政府がいくつもあって内戦が続くところでは、しかし、やむを得ないケースがある。
ですので、尚更、ことに民主制をお勧めするわけですが、軍事独裁の悪政に対しては、武力闘争を交えた反乱になるに、決まってるんです。避け難く、なる。
民主制にしておけば、悪政でも、一応、言い訳が出来る。公正な投票による政体であれば、たとえ人類的に間違った選択であろうと、人々の多数が支持している、と突っぱねることが出来るんです。
もちろん、完全な制度ではないから、独裁者以上に間違った選択をすることがあるかも知れない、という疑問点以外にも、まだ問題が残る。
例えば先ごろから少数民族の尊重とか、カナダなどに於ける先住民への文化押し付けという負の歴史の謝罪とかを述べたけど、異見と少数者は、民主だけでは尊重されないことがあるのであって、どうすればいいか、実は政治学や法学としてはなかなか奥深いテーマなんです。どうしようもないけども、何とかせんとあかん。
結果、民衆が抑圧から解放されるかどうか。よく吟味されるべきでしょう。どこまでも自力執心の世界ですから、政治的社会的な事柄には含みと幅を持たせないといけない。やはりバックボーンには大慈大悲の友たらという願心が欠けてはいけない、必要不可欠だ・・・と思います。
クドクド述べましたが、シャカムニ等のもろもろの如来菩薩は、差別と識別を好まないので、権力、法、強制力、宗教、倫理、行い、集まり等、全てを不問とするし、好まない。
ただ、人間を害うを厭う。これが如来菩薩の人間観ではないかと思います。
人間とは何であるか、人間を害うということはどういうことであるか、これも人間観である。述べるように限界状況に敗北してエゴイズムや争いを避け難いのも人間だが、人間を喜び友を求めるのが人間であり、生死を問わずニッバーナ(涅槃、安楽)を願い、苦を厭い、他者を慈しみ同悲し共苦し共感し、六通も四無量心も求めるのが人間である。
女性子ども、障がい者、被差別者、被占領者、被抑圧者を軸に、よく人間を観察して、道を導く必要がある。
こうした考えは概ねのところで万民の了解を得られるものといえるが、実際には、人間を害う奴隷化、イジメや差別・抑圧・分断・排除・融和、強制労働や低賃金劣悪な労働環境とか重労働など無権利状態の低生活強要、武力・監獄・法制などによる粗末化や殺害、人間の格付け、言語や視線や対応による差別、その他多くの悪事を、当然視する考え方と人々が、現代でもなお、大量に残存するのである。
改善しなくてはなるまい、ということですけど、その道もまた難しいんです。困りました。
🌟🌟🌟🌟🌟
元気いっぱい?!いろいろありますけど、明るくいきましょう!
連帯が大事です。まあ、連帯も、帰属も、元気も、もらうばかりでない、与えていく世界が一番好い。
身に備わるのが一番好いんでしょうけどね。
そうでない場合は、もらえなくなるどころでない、初めから人間性が奪われている。
生きていることとは・・・楽観視、前向き、向上心、如何にして死を迎えたら好いか、死後はどうなってる、等々の問いです。これ全部、生きたいから問うわけです。価値があるんですね、人生って。
まだ、あります。生きる意味って何だ、どうせ死ぬなら虚しかろう。もう、求めて止まん。願い、求めがある。
ところがそれは、なおそれとして自己を十分には表現していない未生態、可能態であって、奥深過ぎるのか、世間に探し難いものなのか、主体にも、なお、まだそれとして全く、あるいはきわめてぼんやりとした薄紙一枚の霧の彼方のようにしか、意識されて来ない
問う前に既に、生きているということは、そういうことです。いのちが、生きる価値を既に知っている。
アタマじゃないんです。人間はアタマがでっかくなって、分からなくなったこともあるんです。
いのちの意味は何だ?と。
さあ。だが、価値はある。
万象がいのちの要件として価値があるということなんです。自分の思う願望やメリットばかりが価値じゃない。いのちは自身を価値として知っていて、尊んでいる。
もしもいのちの意味を思いめぐらせるなら、それはいのちに価値あることを示している。食物連鎖も価値なら、連帯も価値で、困ったもんだが、これがいのちなんだ。
ただ、生命に価値があるんだが、辛い、迷うことがある。一つはアタマの陥穽だ。もう一つは、生活の歪みだ。
さらに問題なのは、周囲だ。決して見逃してはならないポイントです。融和主義と悪しき生活環境もイジメも、自身の姿勢で何とかなるケースと、そうでないケースがある。誤魔化しは、許容してはならんのです。
チェンジしていく必要がある。まあ、面倒だし難しいから、放置しても構わんけども、自分を責めるべきでないのに責めることは辞めるべきでしょうね。
まあ、一番面倒なのは、人間観と人間関係観が間違っているから、温かくない点と、もう一つ、知らないから、なんです。
色々知っているが、人間は、自分自身については、よく知らないし、加えて、そのとき、その人がどういう思いや状態であって、どういう風にすれば明るくなれるのか、を知らない。
いろんな思いで対応するけども、当たらないことが多いでしょうね。
周囲、外部と言ったが、要するに自分もその中にあって加担しているわけだが、人間関係が悪いんです。
関係の悪さが、それぞれの人の世界みたいなもんになっている。相互に争っていても、尊重し合う必要があるんです。
温かい点については究極は悪も受容する。娑婆通らんけども、そのままで仕方が無い。反省も無いし改心も無い、回心も無いけども、大事は大事、ということだけは、ある。誰でも生きているだけで価値がある。
まあ、既にお亡くなりの大悪党の方は構いません、死後もずうっと批判は必要ですが、尊い命に変わりはありませんから、ほとけの世界として扱ってもよいのでしょう。
生存中はあんまり悪だと、拘束されて暮らして貰わんといかんけども、アタマや行い以外の、いのちの部分が尊いんです。権利保障をすべきと考える次第です。
もちろん同時に、自他ともに害を及ぼす些細な悪も、毛も寸分も微塵も瞬時も許してはいけません。
悪人でない人間も一人も居られません。戦乱や死刑制度や犯罪見過ごしなどで、よい子も、人殺しさえも加担させられてきた。とても許容する気になれないから、殺し合いをしなきゃいけないようになったのは、どうして?と内で問うことだってあるわけです。これも、理屈は色々付与されてるけど、理由にはならんのです。
ともあれ、あらゆる問題点の改善を求めるし必要だが、どうでしょうね。治りますかね?
治る治らんにかかわらず、自己改革を進めるのが菩薩道ですが、治らんことばかりです。
内発の動機や深い拠点を持つ。往生って、成道って、そういう連帯的な、友なる世界に生まれることです。
ニッバーナ、往生安楽国は、入滅=死も、生も、超えて、生まれていく世界なんです。まあこれ、シャカムニの圧倒的で徹底的な命運の世界の超越とは微妙に重なったり逸れたりするかも知れませんけども。
自信を持って、歩め、と。
もちろん、友なる世界を求めようとしない人や人間尊重に背く者は、相手にしてはなりません、というのがシャカムニの教えですが、可能の限り相手にすべきなんでしょう。
仏とは何か?智慧であって慈悲であるけれども、主体としてはこれは、大変革であり、実践課題であり、共同体です。
もちろん、以前からみて参りました通り、宗教は元来、グローバルなものなんです。
余談
・・・余談ながら若い頃は、私、至る処で人民の為に、革命をめざしてました。一時期は革命家でしたし、自らそう名乗っても、いました。
けども、民衆の意識や感覚に合致しないし、運動の実態も目的自体も疑問が大きくなりましたし、権力を首とする政治と集まり等々自体が今度は課題になって来ましたし、平和的方向を熱愛するようになり、博愛的にAIに惹かれ、多くの救援事業も強くサポートしていくことにもなりました。
ブンドの先生方とも分岐気味となり、愈々、根源的に革命を目指し始めたのかも知れません。より本質的で徹底的なチェンジを求め始めたと思います。
まあ、二十歳過ぎの頃には同時に既に、主要な関心事に仲間友人恋愛と研究を挙げ、職革には向いていない自覚めいたことも、したためていたわけです。また、我々は労働者とか生産者とか定義される者でありながら、端的に生きている者、私、でもある、とも。今も大人しくて物静かな学究肌のアーティストを標榜してる通り、テーマを求めて行く職人みたいでして、政治面は疎かになりがちに。
今になって考えてみますと、もともと宇宙から目線でしたから、グローバルなことしか分からないし、それも大雑把なスケルトンのパースしか見えん。
ん・・・いや、内奥の細部のひだとか琴線とか胸のゴリゴリとか暗澹たる気分とか辛さ、明日の予定とか目先の仕事に拘泥されるとか、ちょっとだけは文学も、分かるのかも知れませんけど。
ただ一言申し添えますなら、どんな分野も仕事も、はまり役の適任者のほかに、たまには向いとらん者も、必要なんです。
双方とも、殻が打ち破られて好き質へと展開していく可能性が生まれる。
しばらく保守されて安定的に続けようという自己完結型も大事ながら、いつかは桎梏物となっていく殻が破れなくなりがちでは、ありませんか?
また、なおそれと呼べぬ萌芽態でさえ無い如き怪しい「回心」ながら、転回がありまして、学仏学道などせんならんことが多いので、消極参加、市民運動に消極協力程度だろうな、って感じになっていくわけです。個人の動きとしては微力を尽くしますけど、ごく小さい範囲で非力。
まあ、言い訳はしません、遊学ならぬ学(レ点)遊の時間が、仄かに、多めだったのかも知れません。
ところが気が付いたら、自分自身の身心全体が変わった、内的な革命が起こったのかも知れません。
人間のフル・モデルチェンジ言いますか、人間革命なんて言った人がありますけど、大変革になった、かも、知れませんね。
すいません、底下凡愚悪人のまま、間に合わんまま、については、これはもう、どうしようもない、変えようがありませんけど。
今やさらに、人民はアナーキーでプライヴィットでスケベで・・・って感じで、まさに分離分裂が主要なディアレクティクそのものじゃないか、同時に数方向に意識が働いたり、離れてても類似の動きがあるあたりも、量子と同じやないか、っていう人間観みたいな・・・。
今では主に西側と一緒に人民主権、権利保障、保護防衛と解放を進めている感が強いですし、「人民」も多数の労働者中心で構わないけども、やはり困窮者の保護と解放が大事ですし、各層の全人民の政治、ということになってますので、能う限り大所有層も尊重。
一代仏教と同じく、至るところで人民の為になることを求め続ける。この点には何の変化も無いんです。
私自身は自由にして、地位や身分や出身や血筋はもちろん排し、資格やスタンスや宗教・思想も不問にして無差別ながら、同じく、こだわりを持たれる方には、可能の限りは、配慮もしてます。
制度上も、体制批判も、めざすべき状態も、かなりハッキリした部分がありますし、問題点の批判と解決を呼びかけ続けますけど、実態に即して体制を受け止めつつも、ずーっと改善改革を要請し続けるのみ。
Coup d'état状態のままの国、帝政や王政もあり、一応容認しつつも、無差別平等と民主制度と人間尊重、人権尊重の推奨を続けているわけです。
ちなみに、過去、史劇にも倣ったかにみえる共産党独裁姿勢共鳴の頃なら、むしろCoup d'étatとか歓迎していたものです。
だが、ブント型の思想と運動と人間観を更に深化させ改革してアウフヘーベンする中で、党派の独占独裁はもはや反動、歴史の桎梏物、人民の敵に過ぎない面が明らかになった数十年前以降は、党派と権力性自体も否定的にみすえつつ、民主的なソビエト(合議、会議)によるコミューン(共同体)を推進して来たわけです。
毛さんなどは、社会主義は人民の為になる制度だから、革命戦争で人類の半数が死んでも進めるべきだ、などと仰られたが、人民の為にという願心だけは好いとしても、そこに人間を害う政治や軍事の濁りも混入しているし、明らかに反人民的な多くを含むことが、現代史の中でハッキリしたわけでしょう。
閑話休題
閑話休題的に革命という文字、いま諸橋大漢和辞典引きませんけど、弥勒の「勒」とか、改めていくということでしょう。
けれども政治革命、権力闘争でラジカルのイメージが強いですね。
政治的には急進的で、悪質な運動体の革命やCoup d'étatは被害が大きく、自らも人々も世界中も、悪影響して害う。ですから結果としては残念ながらハンナ・アーレントの言うような難民流民だらけ、兵隊だらけの惨状になった。
あまりそうしたことの必要がない政治体制と政治情況が、求められましょう。
ところがそうでないことがしばしばあるもんだから、悪影響になって、反乱や暴動、クーデターや革命も、たまに起こるわけです。
もちろん、命を革むということが、命令する君主やドンが変わるだけ、ってのでは困ります。
いのちが革まる、ということなら、宗教上不可欠に近いんですけども、一般にそうした意味には語用しません。
革命は戦乱を伴うことが多かったので、どちらに責任があるか、両方に在るか、とは無関係に、好印象を持たれないし、戦争と革命、クーデターで多くの被害と犠牲が、いろんな層やグループに強いられていく。
争いの中で生まれるので自ずと、ラジカルな面だけではなく、偏狭で独裁的で排他的な傾向が強く、このため、一般には一層、忌避されるようになった。
また、運動主体と言う観点からみますと修正主義批判、査問や裁判や粛清、綱紀粛正その他、主体の間の党内闘争党派闘争が更に激化し、拉致拘束テロが横行したわけですから、こうした点からも、闘争中心になり、偏狭で独裁的で排他的な傾向が強くなっていくに、決まっています。
用語も、私は改革、チェンジや変革を用いますが、その程度で十分ではないかと感じています。で、民主党政権の発足に際しましても、革命って・・・激し過ぎるんやないの?と。
さらに、人民の為に、ですが、人民の為になっているか、どうか。一人の人間の好き在り方と世界を求める、それぞれの異なれる一人のためになることだけを求めるべきです。
中国と一緒に、嘗て敵視していた「ソ」「連」社会帝国主義、ロシア、アメリカ合衆国も、今では友好的ですし評価点も持ちますし、反面、中国には批判点が増えてしまいました。
米「ソ」に対しては帝国主義的侵略批判、差別と民衆迫害と無権利状態批判でしたが、中国は遅れた体制、ということでした。「ソ」「連」崩壊後も中国ではどんどんこうした時宜に適わない政治体制の問題点が悪化し、めざすべき体制との乖離が激しくなった、ということもあります。
ですから、やはり友好ばかりという分けには参りませんし、批判は続くし、変革を願っています。
ロシア人民であろうと中国人民であろうとアメリカ人民であろうと、保護され解放されるべき点は、同じ。批判点も沢山あるわけです。
和合僧、サンガということがございまして、社会や政治に於いても、多様な民意民心に応えるには、人民主権、民主的選挙等のもとで、一人の尊重を心掛け物質化していく以外にはない。
ただし、見極めが困難ながら、軍事独裁政権などの圧政下で人権や生存が保障されない状態の地域及び内戦状態にある地域でのラジカルな革命やCoup d'étatについては、容認することがある。
ですが、穏やかで平和的、友好的な内に、政治経済社会も私生活も、何事も、好き方向へチェンジされることが望ましいですね。クーデター、レヴォリューションについても、穏やかに対話と友好の内に遂行されることが、人民の願い。
もちろん臨時政権などの場合も、早々に普通選挙により自らの正統性を各勢力が競わなくてはならないでしょう。
もちろん、帝政王政であっても、民主制度以上に人民の為になり、人権が尊重され一人が尊重され民主的であるなら、一応議会制民主主義制度を要請しながらも、許容度は更に増すことになります。
逆に、民主制を標榜しながら、共同体の多数が差別・分断・排除・抑圧に偏向するようなら、厳しい批判は免れないでしょうね。こうした傾向は大統領制や主席制など疑似帝政ばかりか、政党政治にも色濃く、民主政治にかかる問題点として、政治学のテーマかも知れません。法制からするオンブズマンなどの制度、人権条項により是正のための調整機能が要るでしょう。
以前から述べます通り、人民の人民による政治であっても、人民の為になっているとは限らない。
それゆえ、偏に、人民の為になるかどうかだけを、追及すべきだと申し上げるわけです。
この点からも、ですから、政治や社会に取り組むに当たっては、チェンジし続ける含みと幅が願われます。
戻ります。止滅、という二文字を以前定義しましたが、思想問題でもあるので、このHPで取り扱いましたっけ?スペースでしたか?
何でもそのままで壁にならない、相互に好いものをもたらす性質に、チェンジする。変革です。まあ、そのまま無くして好いもんも沢山あるんでしょうね。
生存はもちろんなお苦しいけれども、無自性空で無執着であって大慈大悲・六通・四無量心が真我としてひらかれた人間になる。
輝き合い、輝かせ合えていく、喜び合える、自由で友であれる人間同士の世界が開かれて来る、といっても、過言ではありません。
依然として万象がそれでありながら、壁や害毒とならずに。
まあ、無理だが、常に目指すべし、と。そうしたい、ということです。
自然のはたらきを抑制することは、無理があるし、自然に沿えば、進め易かろう。
有理であるし、ただ、自然に有理なばかりでない、様々の自然性があるから、相互を害わない慈しみ合う自然性に於いて有理である、ということです。
念仏=信心=本願往生が易いけれども、これは反って極難至難難中之難とされ、一見するととても難しくて無理、に思われて来たんです。
しかし、水道方式でして自然に沿う。親鸞さんのお正信偈に、祖師がシャカムニ同等の方と評価して居られた龍樹大師の讃があります。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまはく、
南天竺(南印度)に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破
せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せ
しむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。
流れに竿さして沈んだり、激流に飲み込まれたり、漂い彷徨うばかりの私らが、仏意及び願心の受領で、楽々と往く。
えぴ
以上で断片のアップを終えます。長くなって、すいません。
校正については、俺に出来るかなあ・・・。まあ、もう少し、続けてみます。
ともあれ、たすからん℃~ながら、能う限り、手を差し伸べ合う試みを、続けてみませんか?
合掌