あとの世の繁栄を願うとはいえ、死亡率100%の只中で、いのちとすべき事柄。

 先にコラムで申し上げましたが、研究者は、著作からすると死後往生色が強い、仏・菩薩や浄土との無限の隔たりが強い、とされるけれども、同時に、現生正定聚不退、即得往生住不退転、不断煩悩得涅槃、証知生死即涅槃、等々といわれることから、死後往生ではない、とも言われるでしょう。

 こうした受け止めには各派温度差がありますが、往生という語を『真宗新辞典』や『岩波仏教辞典(増補版で追記された)』で調べてみると、少なくとも、死後ではない説も仄めかされている。

 けれども、では得度、滅度無執着に至ったとしても、遊煩悩林現神通ともいわれるけれども、それは釈迦・龍樹・世親など仏・菩薩のことだろうし、かれらも同時に凡夫として我々は受け止めているけれども、我々の六通はどうなのか、ということもあるし、親鸞に於かれては菩薩の自在の教化も想定されているわけでした。

 人為的で不自然なものは一時的なものに終えるし、現段階での人間の本性に沿った真理であって且つ人間にとって好い質だけが、自ずと受容されていくとは言え、もう、そうした教化の受け止め自体が如何なものか、ということにはなると思います。

 まあ、述べました通り、無理は一時的で、上手くはいかない。けれども、真実であって人間に好いものに対しては、みな、嗅覚がはたくんです。

 注意すべきは、一抹の真実と受容されるべ自然の願いを包含していて、同時に至って人為的なマインドコントロールで自発的な依拠を開発し、同時に脅迫的な強権で臨み、目的たる自派の勢力の強大化をはかり、支配的な権力性に隷属させようとする、そんなカルト政治宗教でしょうね。

🌞🌞🌞🌞🌞ヴェーダ祭祀古代インドでの、新興の宗教と哲学の運動

 まあ、古い時代のインドの状況は史料の発掘に拠らない限り明らかではないことが多いわけで、どこかに眠ったまま忘れられていったものもあるのでしょう。インドに限らず、近代以降、現在でもなお、未知のものがあるかも知れんわけです。

 目蓮・舎利弗などはお釈迦さんより年寄りであられ、早くから活躍していてしかも高名だったとのことです。

 そんな彼らも仏弟子になっていく、一説では、こうした事件でゴータマが有名になっていったとも言われるわけです。

 大迦葉を含めて、一人ひとりが教団を成していたとすると、他の諸宗教との交流も大いにあったかも知れません。大迦葉は釈尊没後、教団指導と経典編纂に着手したといわれており、やはり上級指導者で、拝火教教団から転身した一団を率いていたのでしょう。

 お釈迦さんが著名になるちょっと前に諸宗教で編纂された史料、もしくは釈尊没後しばらくしてから編纂された諸宗教史料で、彼らが単独で取り扱われる可能性もありましょう。

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 少しジャイナ教にふれましたが、マハービーラはシャカより数十年若かったとされていますが、かなり古層のジャイナ教文献の中で、ウパニシャッドの哲人やジャイナ教のほか大迦葉や舎利弗も含み数十人のブッダが登場するらしく、ジャイナ教はシャカムニより少し古いか、没後しばらく時間を置いて編纂された文献か、いずれにしてもゴータマの名は挙げられていないとのこと。

 ・・・まあ、舎利弗の弗は佛みたいな字ですけど、それにしてもジャイナで彼がブッダ・アラカン・仙人と尊称されていることからすると、かなり高名で優秀であられたことが窺われましょう。

 ちなみに、「アラカン」もはじめは応供の意味で、ブッダと同様の意味で広くインド文化で使われていたようですが、仏教ではブッダはゴータマだけの尊称となり、アラカンは仏弟子には用いられることになったようです。

 また、もろもろの仏はただあるがままを語るに過ぎない、という初期経典のお言葉は、自然性そのものの重視、客観科学的姿勢と受け取って好いほどのものでしょう。科学と言いましても、内面や心の動きもありのままに見据えるので、主意的・主情的・主観的なものを内包しています。

 自然法爾。変化、因縁起生滅、輪廻転生、空無自性、これらの自然性を知って、無執着へ、吹き消された安らぎへ、と。
 こうしたお覚りも、煩悩と狭い情愛を超えた、我々の在り方を同悲し共苦し共感共鳴する中で、限りない灼熱の慈しみを自らの中に発見していく如き、灼熱の慈しみ、四無量心・六神通に表出して来る価値の世界、いのち尊しの世界と共に、自然の只中の私、あるがままの私、として受け止めておくべきだ、ということなのでしょう。

🌞🌞🌞🌞🌞私の人生の道

 要するに、仏意・願心にあずかることで、とらわれを脱しつつも、愈々、人間の意義と価値を賜りながら、喜べる素晴らしい人生と社会を求め、主として自らを問い、心掛けていく。
 可否でない、それ以外は望んどらん身であった、と。

 そして、賜りたる本願は、先ず自身にはたらくところから。
 個人の人間関係とか従事する生活諸事への見方、職場や地域や家庭の見方、国や世界の社会・政治・法・経済などの見方にもはたらいてゆき、問題緩和されていくことが願われて来ると思いますし、そのようにはたらくことが期待されましょう。

 これはその人その人の感じ方考え方、関与と取り組みの生活分野や領野、温度差や水準の違いがありますから、万象というわけにも万能というわけにも参りません、むしろ行き届かないままが多いでしょうけど、従事することや関係すること全てに対して、仏道として受け止めていく人生を賜っていく。

 ただ仏道は、先ずは自身に対してですし、自己とは何ぞやと自らの淵源に遡及してゆくし、問題の原因を主として自らに求めていくことを忘れない。

 これは大事な点なのでして、原因を外にばかり求め、見つけるということですと、居直りと自己正当化になり、自己否定できなくなり、機の深信に悖る。

 この、前二回までの内容は、願心に生きる如来菩薩、それは願心とその披く世界から生身のいのちに還ってきた還相の如来菩薩なんですけど、そこのところが集中的なテーマになってくる。

 念仏者の回向も御消息で取り上げられていますから、悦ばしい世界を賜りながら、自らの有縁の範囲に於いて、如来菩薩のお手伝いを試みる、ということが願われていると思います。

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 本当に救済法、幸ある世界をもたらせるかどうか、如来菩薩の姿勢について求めて参ります。

 これは智慧と願心のブッダにお参りして身を照らして明らかにしてもらい、そのまま娑婆世間の在り方に戻る・・・まあ、諸事に没頭していく中で、ゆとりなく、大事なことも忘れて我執に立ち頑張ったり、メチャメチャになったり・・・っていう、自然のこころのままに、たまに、まことの信心に戻ったりする、そうした在り方にも、摂取不捨です。

 ですけども、本来衆生が仏に願われとるのは、慈しみから同悲し共苦共感し、幸ある世界をもたらさん、摂取せん、という願心に生きる人になってください、その為に仏国土建立の智慧も授けますよ、ということなんです。浄土建立。

 とても成らんかも知れないけれども、それまで仏を念じ参って来た私が、衆生を念じる仏の姿に呼び覚まされ、自分を超えて満たしてくる仏と仏国土に下がっていた頭を上げ、合掌を解いて振り返って、どうなるか?

 一貫して底下凡愚悪人ながら、ごく自然の日常に戻るんですが、安堵されている、御安心・御信心を賜っている、願心が分ったわけですが、どうされるか?
 戻っただけか、幸ある世界をもたらす二相回向を担っていくのか?
 名号願心の専修称名念仏や祖師方の遺教が、そのまま如来菩薩の還相回向としてhたらいているけれども、名号願心の念仏を開くと、どういうことか?
 好き世界、幸ある仏国土に照らされて、願心と諸施策・諸方策で仏国土をもたらそうということなんです。

 往生の生活をもたらすんです。

 幸ある仏国土をさまざまな境涯の人の人生にもたらす。四無量心・六通等々の世界と在り方が、能う限りに過ぎませんが、万事を幸ある状態に戻していこうとする。
 名号願心に開かれて来るのが、問題点をみることとその解決を求めることで、問題を緩和したり、事案によっては解決していけるかも知れません。

 如来菩薩に代われずとも、能うことがあるならば、お手伝いをする。願心にふれた人は、もう仏の側になっとるんです。

 願心そのものが自分になっている。ほかの邪や私的な願い、敵を作り攻撃することも自然にして熾盛のはたらきですが、それでも妨げなく伝わってくるのは、不思議、自然ということでしょう。
 やや狭いかも知れませんけど、子どもでもご存じです。力及ばずと雖も、たすけようと、するんです。

🌞🌞🌞🌞🌞人間の為に ー一人の尊重ー

 独裁と急進革命の強行で、多くの民衆に圧政を強いたレーニンはかなり私の中で評判が悪くなりました。ただ、彼には人民解放の理想と志願があり、具体的な政治・経済体制はむしろ人民への抑圧だったかも知れませんが、その願心自体は、比類なく素晴らしい志願なんです。

 至るところで人民の為に、ということでしょう。

 その彼は、少しだけしか読んでませんけど、L全所収の檄文型の手紙その他では、エヌ・イ、ヴェ・イ、ニコライ、ウリアノフ、イワノビッチ、イリッチなど多くのペンネーム署名があり、中に、あなたのレーニン、があったように記憶します。

 あなたの為に生きる私。

 もともと仏教も、近代以降の諸思潮同様、あなたの人生の為に説かれているわけで、僧侶門徒、仏意願心に出遇った者は、どういう存在か。

 まあ、自分自身の人生そのものをもたらす教相・教判と僧侶と寺であるなら、大事にするということが成立する。
 ただ、如何に好き世界、喜びある世界と雖も、自分自身で無いもの、関係ないものである間は、せっかくのお宝も、虚しく掌から零れ落ちて残らない。

 同時に、怪しい教相となると、全く違う世界、人間を害う世界へと誘うんです。

🌞

 仏教は、私の、そしてあなたの人生そのものだが、その為には、精神面に比重があるとはいえ、存命中のこの娑婆生活が緩和されていく、真理で正しく且つ幸ある好き世界をもたらすものでないといけません。

 教相や教相判釈が生きた現実の中で長年精査され、好き理念と感性と姿勢が志向され提起されていなくては危うい。教相や教判がアブないとなると、寄る辺たり得ず、むしろ害い合う人生になりかねないわけでしょう?

🌞

 しかし私は、あなたの私、足り得るだろうか?

 寺は、そのように機能しているだろうか?

 とてもそんな抱負を持てる身ではないとはいえ、浄土から願われているわけでしょう。
 力及ばないに決まってるけども、勤めを果たせ、と。

 同時に、かかる我々であるなら、やはり、寛容寛大が問われることを肌身で感じるんです。
 どなたも、ある程度大目に見てもらわないことには、一人とてたすからぬ私ら、なのではなかろうか。

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 寺はサンガ、共同体である。あらゆる共同体といろんな立場の人間の最右翼を為すべき、大慈大悲・四無量心・六通、いずれも、対他性とか関係性を改めていくことを意味しているわけです。
 友好と平和と生活供給等を、体現するものである。
 ここに於いても、先ずは問題を自己のうちに見出し、自身を問い、自身からはじまるわけです。

 弊派では、念仏者の共同体という人も居られたが、要するに同朋会運動と言うのも、人民の為にある仏意願心に開かれる好き世界に生まれ、凡夫ながらこの世でもその世界を生きることを志す者、ここに集うべし、ということである。

 我々は寺に足を運んでお参りし、自らの時間を静かに取り戻すわけですけど、ほかに、やはり、たまには聞法・座談ということが要る。人生も見直して点検する、日常の暮らしも見直して、新たなスタートをもらえることが望ましい。

 温かな共同性の発現たる如来菩薩の願心に出遇って歓喜したリ、共感共鳴したリ、自らのなかに仏願と仏眼をたまわる。
 これを回心信心の人といいますが、その信心の運動、願心に生きる者の運動は、なかなか分かりにくいんです。

 社会的であるけども、社会運動とも異なり、社会や社会運動も、政治も経済も含めて、個人の関与するあらゆる私的な事柄や、公的な事柄にも、それぞれに応じて見方と姿勢を自らみつけていただく。

 聞法の中で、如来菩薩の願心とその披く世界と実際の生活ケースなどにふれていただくわけですが、それぞれの方のお立場に応じて、自らの道をみつけたり、見方を手にしていただいたり、自分の在り方を自ら手にしていただいて、還っていただく。

 まあそれも社会的役割を持ちますから、運動と言えば運動だけど、実際の生活も諸事・諸運動もそれぞれの方ご自身が担っていかれる。

🌞🌞🌞🌞🌞カルト教団問題の諸相について

 カルト教団が問題視されながらも長く跳梁跋扈出来たのには、理由があるだろうと思うが、愈々、問題から目をそらせなくなってきたようである。
 安倍ちゃんも気の毒ながら、テロに訴えて教団を糾弾した犯人も気の毒である。

 国会でも論議と法制が進められ、世論と共に基本的人権を侵食する如き危ない臭いの意見が感じられるわけです。
 僕のコラムなんぞは狭い私的一文に過ぎず恐縮ながら、まずは、調査と実態把握なり事実確認が必要であるが、多くの要素と傾向と側面があるので、多様な方面からの攻究が望ましい。

 法制も常識も、強制力も権力も、カルト的な降魔。勝敗。真理。差別と排除と攻撃。情報隔離。捏造。多くがみられますが、命運の世界に潜む魔を感じます。

①勧募奨励問題について

 財政は物質的基盤に必要であって、結党結社・集会・信教・布教の自由。民主制の根幹であって、多数の庶民は自らの権利放棄すべきでない。競争の中にあって増加を願うのが、あらゆる集まりであるから、制限は認められないはずなんですけど。

 けれども、やや形而上学的でやや倫理的な面も含みつつ人生を実践する仏道も宗教事象なのかも知れないが、生活をもたらすものとして、宗教もあると思う。
 また、人間の為になること、一生を託していける出会いが、宗教でなくてはならないでしょうね。
 すると、霊感商法と言わずマインドコントトールといわず、やはり生活状態から考えて過剰と思われる勧募奨励を庶民に対してすべきでない。これは教団側の問題点と思われる。

 むしろ、場合により少額でも構わないものとすべきだし、出来れば教団側も経済困窮者に物質的支援をした方が好い場合もある。ところが普通、ここが問題なのだが、社会的弱者に対してではなく、役に立つ者や有力者に対してばかり支援する。それでは宗教上、好い理念とは言えないであろう。

 特に、経済に限らずいろんな点で追い込まれた多様な困窮者がフリーダムに至ることを願うわけだが、人間を喜び友にならんとする共同性、健全な社会性の確立とか、一人を尊重して尊びあえて認め合えていく共同体の整備や改善、人権蹂躙防止と人権尊重、自律を主とした警戒すべき犯罪への相互の注意や教誡・矯正・保護、権利・義務関連、といったパブリックな面もあれば、その人その人の置かれた境涯と考え方と姿勢と生活の実際に応じたケアも、要るわけです。

②養子縁組問題

 養子縁組自体、問題が多い。信用も出来ない。子どもは無力のことが多いのが問題で、勝手に性犯罪や臓器売買に利用されては困る。

 そのことを十二分に踏まえて具体策を詰めたうえで、可能として好いと思うが、注意点・履行義務を遵守すべきであるし、一人の尊重を第一としていただきたい。

 子ども(ばかりではないが、弱者)を中心に置き、軸に置いて考えなくてはならない。実の親であっても預かりものとして考慮いただき、私物化してはならない。 
 子どもを例に取るなら、まず、子ども中心とすべき。
 親は、生存・死別・離別を問わず実の親二人と、新たな親一人以上で、全員保護義務を負うべき。親権も平等に分担すべき。
 すると一面、子は普通より親が多く、強力にバックアップを受けることになるし、社会適応に長けていく可能性も、あるだろう。まあ、適応したくない、不適応なんだろうけども。

 仏道上正式に言うと、我がままし合って何で言えて喧嘩できるのが家族など親密な関係でもあるわけだが、血族でなく友でもない他者に対しても、どの一人に対しても何処の誰であろうと、自分と同じくみなして尊べ、ということである。

 実際、養子縁組とは関係なく、色んな「親」や「友」があるわけで、お育てに与ってきました。生みの親も大事ながら、育ての親も重視しますし、血縁よりも固い絆の義兄弟、同志友人が大事です。
 問題だらけで、いずれもそのままではもはや依拠も運用も出来ませんが、仏道もマルクスも人権確立運動も解放運動も、諸学も、親であり友人なんでしょうね。

 まあこれも、その前に、もっと自分を大事にしろと言わなくてはならないケースが多すぎるかも知れないし、自分を育てる仕方をちゃんと身に付けていないことには如何なる親も友も、仏も仏教も、それとして機能してこない、他人事で終わる、ということもありますから、併せて申し添えたい。
 いつも言ってますけど、たすかりもフリーダムも、自分事で、自分がやる以外にないんです。

 ただ、養子縁組を奨励まですることについては、組織固めは自由としても、血縁信仰問題があることと古代社会型であり、同心円的な信仰共同体拡張を意図しながら、差別的・排除的になる。
 一人の尊重、自由社会、フリーダム、人権上などからみて、問題がある。

 信仰の自由は家族でもなく結婚でもない、一人の自由。一人の寄進や入信に家族の口出しを許さない反面、養子縁組や結婚を奨励するなど、信仰共同体の強化のために使い分けするのもおかしいように思うが、基本は、信仰でも行動でも、一人ひとりの責任ある権利と自由でしょうね。

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 まあ、家族の寄進で経済困窮になる・・・そうしたこともまた、あらゆる一人の尊重による行き届いた社会制度や社会保障制度の整備で、かなり軽減されるわけですけど、それにしても、寄進を強要するべきではないし信徒の暮らしには教団側が気遣うべきでしょう。

 要するに言いたいことは、家族とか結婚とかではなく、一人の尊重のための、法制と権利保障を進めて欲しいということと、ケアしていく機関と体制の整備充実や財政的手当ても充実して欲しいわけです。そのことで、例えばヤングケアラーその他、家族への負担も減っていくし、家族の無い不安も軽減されていく、これはあくまでも可能性でしかないし、問題も出てくるんでしょうけど、そうした方向の方が好いのでは。

 もちろんこれはカルト以前に、共同性はあるし、友を求め仲間を求めるものの、わずらわしさから関係を求めないことが多く、孤立しがちで、孤独になり易い、それが現代人の少なからぬ部分。
 更に、いろんな所属に押しつぶされ、脅迫され、差別化され、押しつぶされかねないこともあれば、やり場のないものを抱えさせられたり、そそのかされたり、心のスキに入り込まれたりしかねないし、仕事でも家庭でも非常に狭い範囲になりがちで、自ら情報制限しているわけで、事実上情報制限されているのと同じになっちゃうのが、普通の暮らしであろう。
 思わぬ危難にさらされる可能性さえあるかもしれない。

③統一教会被害者救済問題にかかる懸念

 カルトについては数十年前からキリスト教からの批判も含めて多数が出版されている。カルトは論外なので、特に対象にしていなかったため、深く研究したことはなかった。まあ、要するに、人間の為になるあらゆる事柄に対して背く運動に過ぎない。まだ残っていること自体が不思議であるが、やはり一部政権との癒着だったか・・・と。

 しかし、諸個人一人ひとりの思想信条の自由、集会結社の自由、意見と発言の自由、行為行動の自由など人権条項は大切である。
 もちろん、ただし、内容は批判し合うことになるし、一人の尊重を害い、他者の生活を侵食し、人権を侵害し蹂躙することは、禁じられる。大いに自制すべき点と言えよう。
 けれども、民主社会にとって一人の尊重こそ重要と考えるが、その為に不可欠のものが人権諸条項であることに変わりはない。

 その点、政治家や宗教家に限らず、公務員だろうとどこの誰であろうと、宗教活動や政治活動についても日常の生活の諸領域、職業や学びや遊び、家族や友人や人間関係や所属についても、原則的には、とやかく言われる筋合いはない。私見ながら、ずっとそう言って来たわけです。

 今はおかしい情況になっている。
 また、全てを権力政治に収れんさせていこうとすることも危険と思う。国会の質疑や世論を聞いていると、法的規制や制限ばかりで、まあ、法制自体が法的強制力と制限なので当たり前だが、非常に気がかりだ。
 もちろん、政教分離は一部の思想と宗教に権力が独占され、弾圧が行われることを排するために必要だが、実際にはそうなった状態の、あってはならない国と地域があるし、統一教会の日本もそうだった、と感じた次第である。

 ただ思われるのは、それ以前に、一定の思想的な教条の無い政権や政治は、存在しないのではなかろうか、ということです。

 あらゆる動きは動機によるが、思想や信念や規約や綱領や条文などの教条は、明瞭に宗教性を帯びるのであり、強制力と権力に関係することもあるだろう。
 それ故いよいよ、思想や宗教や人間観や国家論、政策理念、創業理念等々とそれらによる集まりには、人間と人間関係、社会の為に、好い出発点となることが願われている。

 ちなみに、政権と商売では、相手を問わない、批判もあるけども、対象を問わないことが多い。
 利害ということもあるけれども、政権は多くを包括するので、多様を認めて受けていかねばならない。論難を論破することも多いだろうが、同時に、万民を容(擁)していく雅量が必要である。商売が成立するにも、人気が大事であり、お客さんを問わない取引が多いからである。
 もちろん、対象が制限される政治活動も取引もある。望ましく無く、あってはならないけれども、紛争状態への武器供与対応、同盟国・友邦と敵国などである。

 これとは別に、仏道は端的にいのちを尊ぶので、対象も宗教も善悪も問わない。丸裸の一人を大事に、ということが根底にあると思う。
 もちろん、お釈迦さんや親鸞さんみたいに批判は口煩く厳格で細かい。受容の余地はゼロで、誰一人認められないほどのもの、なのである。往生も出来なければ、成仏も無い、死後も無理、みたいな?しかし同時に、願いは常に万民の受容、なのである。

④悪魔ということ・厄ということ

 厄って何でしょう?誕生=おおいなる苦悩、とされるし、仏教からするとすべてが災厄だ。一切皆苦。
 神も神々も、願いを叶えてくれることもあるんでしょうけど、反面、手前勝手な願いには耳を傾けてくれないかも、知れない。
 解脱と無執着がお勧めなんです。

 また、厄の一つである人間関係と自己自体が苦悩の原因の場合には、仏道が有効でしょう。
 厄払いの一つが、大慈大悲、人間を喜び大事に感じ友を求め、四無量心・六通の世界に照らされていく。相互にかかる世界を創造することです。

 バラバラで一緒、差異を認める世界の発見、帰ろうもとのいのちに、今いのちがあなたを生きて居る。
 いのちの一つの仏教的な文化表現を取りますなら、生身の呼応する四無量心・六通照知の私。

 少なくとも、問題の多くは緩和される。自らの日々を滅ぼし尽して脱して、さあ、健全な社会の形成に、更に進みましょう。そういう促しと思います。

追記

 え~、一日一回は「死」を語るようですいません。死王に打ち克てる者はいない、ということで、お釈迦さんみたいに現生成仏され、死王の見ない者になってください。
 それと「だ・である調」と「ですます調」が混在しててすいません。走り書きを急いでアップしました。

 大谷派高田教区第三組大泉寺の比後孝さんが『『王舎城の人々の物語』と「栴陀羅解」』上下二巻約700ページを出版されましたので、紹介させていただきます。読めるかどうかわかりませんけど、御出版おめでとうございます。
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