授記といいますのは、シャカムニが門下の行者に対して未来のお覚りを認可されて、預言されることです。

 今回はお釈迦さんの授記についてと、末代の底下凡愚悪人の授記について、いささか当て所ないものがありますけど、何とか彷徨ってみようと思います。

 命運の世界を超えるに徹底的過ぎるシャカムニのフリーダム、因縁起生滅の無自空義と無執着へのシャカムニの拘りと、そのことの修得を以ってお弟子さん方に授記された節があることについて述べました。

 どうでありましょうか?

 シャカムニの到達点、自己認識とか科学的世界観、人間観にも限界もあったかも知れない点も、既に述べました。
 しかし例えそうであっても、もとより、「大乗的」であって、共同的である、とは思います。

 仏教教団と教相リーダーが一丸となって、異教・異論・異思潮・異文化・異人との関係の中で、愈々、教相が練られていきました。

 無差別のお覚りと、仏菩薩同士の等しいお覚りと関係もあるわけですが、摂取不捨自体も、四無量心もそのことに関係しています。

 しかし誤謬や不備も、三蔵中のそこら中に散見されるように感じています。

 仏教は智慧であるから、激流の中の無執着・滅による独清閑。変化、無自性空、縁起法、無執着。

 シャカムニは特にそうであるから、どうしてもエリート的で、大慈悲ながらも、唯凡観は欠けています。
 法然・親鸞・蓮如各師=両両度や、善導師の方が、この自己観に於いてはより鋭く、より在るがままに近い観にあられた。

 まあ、シャカムニと雖も機の深信があり、達しないが達する、知らぬを知るとする謙虚さを重視される表白もありましたから、全くの超人志向とは異なるが、なお、不十分を感じるわけです。

 ただ、無執着だけが独り歩きしているのではなく、あくまでも一大事、価値と尊重があることが肝要。

 これは自己が破られて現れた自然のことであって、身の事実の一つである。ここにおいて、愈々、滅が生きて来るんでしょう。滅度に開かれた私の世界。温かく、明るく、希望と信頼に満ちた世界です。



 しかしシャカムニが自己の実存、私は居るのか、何ものか、たすかりは、ということについてよりも、一貫して無自性空義・無執着になっていかれたのは、初転法輪にも関係しているかも知れません。

 従者はみな、健康であったと思われるし、(ゴータマは脱落した、しくじった)という冷たい見方をして居られた。
 そこで無視しようとしていると、シャカムニが歩み寄って来る、ただならぬ様子に、無視できなくなったとされています。

 それでも直ぐに理解されたわけではなく、しばらくの間、説法が続いたようです。

 ここで最も説得力があった内容が、何であったか。
 最初に修行放棄・菩提樹下端坐成道の言い訳、過度の欲望と過度の禁欲の否定からはじまり、四法印、四諦だったかも知れませんし、それらの底には必ず因縁起生滅の無自性空義と無執着があるのですが、苦からの解放。
 解脱ということになる。

 須らく執着であって、生滅流転の命運を免れないうえ、それらは悉く苦悩に繋がっていくのであるから、因縁起生滅と無自性空義と無執着の見識は、実際的で実用的な発想でもありましょう。



 ここではやはり、大衆もろともに、他者の尊び合える世界、大慈大悲は後景に退いていたのでは、ないでしょうか。
 健康な者・有力な者には、必要性が薄いもの、むしろ征服の邪魔になるもの、でもあるのでありましょう。

 たすけ難かった大事な存在を失った弱き自身に出遇って、初めて頷ける質かも知れません。

 実に大慈大悲も六通も共同性、関係性、他者の認容に存するわけで、元来一切衆生の熱い思いに応えるもの、であって、人びとと共なる自然の私が明らかになった人、それが仏です。

 ですから、まあ、断定するわけではありませんが、因縁起生滅の無自性空義は前段、厭離穢土でしょうし、無執着は欣求浄土なんでしょう。欣浄には無執着だけでない大慈大悲の世界も含まれるわけですが、非常に薄めである。

 通達諸法性一切空無我、因縁起生滅無自性空・無執着、厭離穢土と共に、専求浄仏土必成如是刹の欣求浄土の自分が、愈々、あらわになったのでしょう。

 迷妄煩悩の我執が無効となり、破れ、自身が滅ぼし尽くされて、本来願っていた私が、現れていくんです。本願成就です。



 六道輪廻、地獄・餓鬼・畜生、天・人・阿修羅という生命把握がございますが、既述の通り善悪の凡夫人も、神々も悪魔たちも、熱い思いをぶつけていく。

 その底の底、根源にあるのが、本願なんでしょう。
 神にも神々にも聞き届けてもらえるとは思えないような手前勝手で邪なことが多い願心の、その底にあるのは、満足、安心、安楽、好き人間関係と幸ある世界への求め、でしょう。

 腹が減って飯を食うのは自然で、また、栄養価を考えるのは自然で、意図して欲深くなったり、はく奪するのとは違う、ということがあります。



 シャカムニは、御自身のご家族とも離別され出家されたが、出家教団に加えられたとはいえ、子どもさんにはラフラ(漢訳浄土三部経の中では羅睺羅。妨げ、障がい)と名付けられた、と伝わっています。
 執着は、いかん。情愛も出家求道の妨げである、と。

 他の説としては例えば、「ラーフ」が、シャカ族の祀りシンボルとしたナーガ(龍)を意味し、その頭を意味する、その為シュッドーダナもこの名を喜んだ、というものもあるようです。この説の真偽も存じません。

 ともあれ、もしも妨げとか障がいの意味とすると、斜に構えてるとか、ひねくれてるとか、特異だとか言われることさえある僕らでさえ、常識人的に理解不能です。

 現代の常識では、養育上望ましくない。忌避される名前で悩む子もありますし、人生が変わっちゃう。改名されるケースもあるんです。

 非常識を通り越して、悪ですね、これは。そう感じませんか?(・・・バカ)みたいな。
 まあ、恋愛も家族も結婚も大事、一度は持つべきながら、合わないんでしょうね、ご自分が気に入らんからと言って、異性、まあ女と離れる。まあ、自由。自由です。

 ただ、まあ、お釈迦さんは全体に軽視され続けられたわけですが、同性でも異性でも友であること、仲間であることが大事ですし、性性もあるわけだから、不自然でおかしい、とは思いますけど。
 ともかく、子どもの行く末も顧みないように、感じちゃいますよね。

 名というものはそんなに大事じゃないのかも知れませんけど、しかし意味を考えて名づける場合が多いでしょう?

 全ては妨げであるけど、それを名付けるというのは、温かい気持ちから考えても、おかしい。

 身心脱落、自らを滅ぼし尽くして脱し、因縁起生滅、無自性空、無執着。これはその通りで好いと思いますが、そこから改めて生まれて来るのは、ドグマティズムや法執ではなくて、大慈大悲の、尊び合い認め合えていく、自然で温かい私と世界と人間同士なんです。

 で、オッサン、ちょっと、やり過ぎじゃないの?と感じてたわけです。要するに、執着であり、情感であり、人を大事に思うこと自体がいかん、というのは、明瞭な行き過ぎなんです。

 まあ、ラフラの名にかかる他の説なら好いのかも知れません。お釈迦さんの激し過ぎる性格から考えますと、失礼ながら、これまで通りの解釈の方が妥当に感じられるような気もいたしますけれども・・・。

 まあ、これは他の分野でも、実際に何事か為さんと発起するなら、何もかもかなぐり捨てて決起邁進するのが、古来、当然自然の習わし、でもありましょう。大願に目覚めて大志を抱ける者なら、当たり前。
 ウチらの場合なら、めっちゃ弱いけど。途中で挫けるし負けるけども、それでも、構わんのでしょう。大事なことと思います。

 もちろん、もう、我々全部が立派な悪人ですから、お勧めもしかねるけれども、ただ、身を正して進む発心初心だけは、かく在るべし、と思います。

 しかし、めざすところがお覚りとお覚りからの還相回向であるなら、愈々、有縁の家族も友も大事にせんならんはずです。

韋提希夫人と女官500人への授記

 他方、浄土門、就中観経に於ける授記は、お釈迦さんのと対照的で、もちろんお釈迦さんを登場させとるわけですが、韋提希夫人などが皆得往生。

 凡夫が仏になる。凡夫が仏になるこそ不思議。ここに、真骨頂があります。迷妄煩悩が破られ、解き放たれ、大慈悲海へ。

#2得益分
【31】 この語を説きたまふ時、韋提希、五百の侍女とともに仏の所説を聞き、時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。
 世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし(往生するであろう)。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり。(『観無量寿経』より)

 こうして、観経のおかげで、我々女人悪人、凡愚全部が、往生への道を手にすることになる。韋提希夫人と五百の侍女が、シャカムニ他登場人物全員と共に、我々女人悪人、庶民を代表して道を示されるところに、この経の特異性があるとも、申せましょう。
 ここに観経の大きさがある、と感じます。

 中国や西域撰述の偽経ともされ、法華経と並んで最も新しい経とも思われがちな観経ですが、意外ながら圧倒的な重要性を持ちます。

 善導大師は偏に観経に深く依られ、観経四帖疏を著わされ、その導師に法然聖人は、偏依善導と深く帰された。私もまた、これ以上に尊いことは無い、と深くいただきます。

 大衆部系のなかで、初めて凡夫成仏がハッキリと闡明されたのであります。